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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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長兵衛とお蔵屋敷  富山市二松

 



 今から二百年ほど前、たくさんの米俵を積んで、舟倉野から東岩瀬野の海沿いにあるお倉屋敷へと運ぶ、長兵衛の一行があったと。石ころの多いでこぼこ道を、大きな車輪の音をひびかせながら、舟倉米を積んでいかれたと。


 やっと半分ほど来たとき、
「さあ、飯だ、飯にせんまいけ」

と言って、一行は梅干しの入った大きな焼き飯(おにぎり)をさっさと食べたと。それから、ボロボロに破れた草鞋を脱ぎ捨てて、腰に吊るしておった新しい草鞋にはきかえたと。腰にまだ一足残っているのは、帰りの分だといね。


「さあ、あと半分だ、元気出そう」
みんなは、お互いに声を掛け合ったと。ようやく、東岩瀬野へ着いたのは、お日さまが海の水平線に沈む頃だったそうな。


 ところが、東岩瀬野の番人たちは、
「舟倉米は品質が落ちている」と言って、値段を下げたといね。長兵衛たちは、くやしくて残念に思ったと。


 舟倉野に帰った長兵衛たちは、毎晩村人たちと語り合ったと。
「もっと良質のお米をたくさん採れるようにするには、どうしたらよいかの」
村の人たち全部で考え、知恵を出し合われたと。それからというものは、まじめで人情のあつい舟倉野の人たちは、戸口に行灯をともして、おそくまでよう働いたといね。


 その甲斐あって、一年一年、たくさん良質のもちもちしたお米がとれるようになったと。舟倉米はおいしいという評判が、加賀の殿様の耳に入ったので、その頃繁盛していた二本松に、お蔵屋敷と番屋敷が建てられたと。


 千三百坪の敷地内に、お蔵屋敷の広さは、およそ五百八十坪、番屋敷の広さは、三百九十坪と伝えられているそうな。お蔵は四方が土塀で囲まれていたと。お蔵が近くなって喜んだ舟倉野の人たちは、長兵衛を神様のようにあがめ、うやまったと。


 明治時代の初め頃まで、長兵衛をまつる「大長祭」が盛大に行われていたんだと。お蔵屋敷、番屋敷のあと地は、二松のお宮さんの西側にあったと。現在は、大毛利俊夫さん一家が住んでおられると。


参考「二松のあゆみ」 話者 大毛利俊夫 
「船峅のむかしがたり」

 

伝説 吉野篭の渡し場の大蛇   富山市吉野

 



 吉野の篭の渡しの場所は現神通川第一ダムの下にあります。 私が十才頃聞いた話です。

今から百七十年位前のころでしょうか。村に丗五、六軒位の家があったじぶんのお話です。

 
 茂住の住人で柿下という人が、吉野銀山の鉱夫として吉野へ稼ぎに来て定住していました。
柿下という姓で名前までわかりませんが川での漁猟が盛んな頃のある日、柿下さんが川へ鮎か鱒かわかりませんが、魚を捕りに行きました。


 篭の渡しの下の川原で流れを眺め漁場をどこにしようかと川上を見たり、川下を見たりして思索しておりました。

 
 虫の知らせか、フト上流の大岩の方を見るとアーラー恐ろしや、大きな大蛇がその岩に幾重にも巻きついて、こちらをにらみ、赤い舌をべらべらと出して形相物凄く今にも飛びかからんばかり、柿下さんは余りの恐ろしさに身体がこわばり、心臓が止まったかの様に動かれず、顔は青ざめてしまいました。後日その事を他人に語ったということです。


 本人は今迄、山や川で生き物を殺生したことのたたりであると悟り、今後一切、猟を止めることを決心したとのことです。


 現在吉野橋近くの六地蔵のそばにある舟型のお地蔵様は、本人が後世までもと、願いを込めて建立したと伝えられています。


 その後、柿下家の人が佛心厚く「六字名号塔」を建立されました。 苔むした側面に天保十二年巳亥五月當村施主柿下源五郎と古字が残されています。


笹川慶治 翻刻 平井一雄 
郷土研究大沢野町「ふるさと下タ南部」野菊の会より

お正月のお話「一つ転がせば、一千両」   富山市二松

 



 ちょっとむかし、お正月になると、いろいろとかわった旅芸人や、越前万歳、恵比寿大黒、福の神、お稲荷、猿まわし、福俵などが、この二本松へきたんだよ。


 きょうは、福俵のことを話してしんぜよう。


 美しい米俵(長さ三十五センチ 直径二十センチ)の両端にきれいな金の鈴をつけ、その俵に六メートルくらいのなわひもをつけて、福俵を持ったおじさんは、万歳師の服を着て、わらふかぐつをはいて、背中に俵をかついで、家を一軒一軒まわって、そのあとを、子どもたちがくっついて歩いたもんだ。


 その頃の二本松には、一軒の家に子どもが五、六人うまれておって、それは、にぎやかだった。


 福俵のおじさんは、家の玄関木戸口に立って、大きな声で、
「あーめでたいなあー。めでたいなあー」

といって、自分で木戸口を開き、広間の入口の戸をあけて、米俵を広間に二メートルぐらい投げ、もっと大きな声で、
「一つ転がせば、一千両」
今度は一番大きな声で
「三千両のおん俵、福はこの家にどっさりー」
と、神棚の下まで投げる。

「空き俵、こちらへ」と引きもどす。

そのお礼として、餅を五切れか七切れもらっていった。


 その芸人たちは、もらった餅を町へ持って行って、一切れ二銭で売り、みんなで五円の収入があったそうな。この五円を今のお金にしたら、二万五千円ほどのもんかな。


「もういーくつねたらお正月ー」
お正月を待ちこがれる子どもたちの元気な声が聞こえてきそうだよ。

 

 これでおしまい。


話者 西野久一
再話吉田律子
「船峅のむかしがたり」

 

柿の実なります、なります   富山市二松

 



 むかし、お正月の頃にゃ、大雪になって、どの家もどの家も、すっぽりと雪の中に沈んでおったといね。


 それでも、子どんたちは、みんな元気で、かんじきをはいて、雪をかきわけかきわけ、近くの山にかけのぼって、若木を折って、いっぱい束にして、藁でしばって担いできたもんだと。


 その若木を焚きもんにして、小豆や餅米を長いことかかって、ぶつぶつと煮たもんだと。


 どの家からもどの家からも、わら屋根のすきまから、白い煙が立ち上って、村の通りはこうばしいかざ(におい)で、いっぱいだったそうな。その頃山にはいっぱい珍しいかざのいい木があったと。


 それから炊けた小豆ご飯をでかいと桶に詰めて、あんちゃんがそれを持って、その後から弟や妹が、ぞろぞろくっついて、うちのかいにゅうにある大きな柿の木の前に並んだと。


 そしてあんちゃんが大きな声で叫んだがやと。
「おい、柿の木よ、実がなるかならんか、返事しろ。返事せにゃ、ぶっ切るぞ、ぶっ切るぞ」


 そしたら、後ろにおった弟や妹たちは、いっせいに声をそろえて、
「はい、なります、なります」と、大声でまじめに答えたと。


 あんちゃんは

「よおしー」

といって、腰にあった鉈で、柿の木の皮をはぐって、小豆ご飯をべったりくっつけてあげたがやと。


 それから、どの柿の木にも、どの柿の木にも、小豆ご飯をどっさりあげたと。


 それで、昔は、あまい、あまい、柿の実がどっさりなったと。


 これでおしまい。


話者 西野久一
「船峅のむかしがたり」

 稲代のともしび  富山市稲代

 



 むかし、大沢野は葦や草の生い茂った大きな野原であった。


 その頃は道といえばわずかに稲代から八尾に通じる田んぼ道があるばかり。そのごつごつした道は高く高く盛られ、人々はひだおろしの強い風が吹いてくると、道のかげにかくれて、しばし時を待ったものだ。


 その道の近くにぽつんぽつんと、あらかべにむしろをつるした家が建っておった。家の前に灯されたたったひとつのランプは、家の中も照らし、外も照らした。


 人々は夜も昼もなく働き続けたものだよ。


 その頃、稲代の南に代官山があった。代官山のちょうど真ん中に大きなほら穴があって、中にはむしろがしかれ、鉄格子がはめられていた。


 しかも堀で囲んであった。


 そこは大沢野を開拓するために、準備された囚人たちの宿舎だったとか。これはおじいさんの子どもの頃の話だよ。


話 小幡太一
再話 吉田律子
「たずねあるいた民話 大沢野」