夢枕に立たれた石仏 富山市二松

昭和19年、二松万行寺の門徒である富山市総曲輪の市田三郎さんの夢枕に立たれて、
「二松の寺へ連れて行って、安置してほしい」
とお告げがあった。
言われた所へ行ってみると、そこに石仏がちゃんとあった。
誠に不思議な石仏が、今、万行寺に安置されている。
「船峅編 ガイド」
帝竜寺の三秘宝 富山市寺家
船峅山(せんべんさん)帝竜寺は、大宝2年(702)文武天皇の御血縁の真福親王が建立されたと伝えられている。
帝竜寺の本尊虚空蔵菩薩は、姉倉姫の本地仏で、代々の住職は、社僧として司っている。神仏混肴の名残を今も留めている。
虚空蔵菩薩は、右手に利剣、左手に宝しゅ持つ坐像である。
虚空蔵とは宇宙の太陽や地球等全てのものを包容するようにその知恵は計り知れない。
知恵をさずける仏様として信心されている。
昔、寺家に八郎右エ門という信心深い人がいて、ある夜、夢の中で
「我は嵯峨野の虚空蔵菩薩である。越中は船峅山に行きたいから、美濃の大垣まで、おまえに迎えに来てほしい」
とお告げがあり、その通り丁重に帝竜寺にお運びし、安置したといわれている。三十三年に一度ご開帳される。
十一面千手観音像は、帝竜寺の秘仏であり、木彫寄木作り、総高三尺三寸、腰幅八寸、腰の奥行七寸。お顔は玉眼と白毫には水晶を入れ、材質は檜で頭上には十体の化仏いただいた十一面観音の姿である。
内側正面に千手仏、内側背面に北六道越前国坂南郡春近御庄南郷太堂寺住侶讃岐房覚乗同弟子薩摩房定応所弐人之作也と墨書銘がある。
千体仏絹本着色軸は、県指定文化財であり、縦五尺三寸五分、横四尺五分大軸画面中央に月輪を描き、蓮台の上に過去仏を描いて周囲一面に小仏像に金箔を押し、千体並べたもの。
同じ形式で現在仏と未来仏が他寺にあり、三幅併せて三千仏といわれる。
「大沢野町 ガイド」
はたおりの先祖 姉倉姫のお話 富山市寺家
舟倉山というところに気持ちのやさしい姉倉姫という姫がおられたと。
ちかぢか、姫と結婚の約束をかわした男神さまがおられたがやと。
ところが、その話を聞いた根性の悪い女神がおられて、むらむらと腹を立てて、じゃましてこませにゃと考えたがやといね。
それからというものは、ありったけのだてこいて、男神さまの所へせっせと通い続けたと。
そのうちに男神さまもだんだんと悪い女神が好きになって、姫のことなどすっかり忘れてしまったと。
そんなことが姫の耳にもとうとう入ってしもうたがやと。
姫は、友たちの山鳩にさぐらせたら、やっぱりそうだったといね。
姫は、毎日さめざめと泣いておられたと。これを知った村の神さまたちは、ぞくぞくと集まってこられ、いよいよ戦が始まったと。
でかいと石をなげさくったので、舟倉山には石のかけらもなくなり、つべつべの泥だけが残ったそうな。
その頃、出雲の国に大国主命という偉い神さまがおられたと。
越中では、ものすごい戦が起きていることがわかって、早くやめさせようと、五色の旗を五本作り、舟倉山へずんずん進まれたと。
日頃から大国主命を尊敬しておられた姉倉姫は、五色の旗を見るなり戦をやめさせられたと。
少しおちつかれた姫は、山の上の鏡のような池に自分の姿を映されてびっくりしたと。
まるで鬼のようだったといね。
心のやさしい姫が泣いていると、仲よしの蝶々からとんぼからうさぎから、小川のしじみまでなぐさめてくれたといね。
もちろん、根性の悪い女神や男神さまも、大国主命によってほろぼされたそうな。
そのあと、大国主命の命によって、姉倉姫は、はたおりの仕事に精を出し、広く村人にすすめていかれたがやと。
今でも、村の行事には、船峅音頭となって、
「とんとからりと、はたおりなさる、姿やさしい姉倉姫の・・・」
と、唄と踊りでにぎわっていると。
これでよんつこもんつこさ。
話者 悟道伊三郎
「船峅のむかしがたり」
船峅地区の地名の由来 富山市船峅
船峅は、古代文化の発祥の地といわれ、「船峅」の初見は正安三年(一三〇一年)である。
小黒
寺家、直坂と共に開拓が早く、神子田、神鋤などの信仰名の小字もあり、小黒となった。
松野
昔は広い松林があり、大久保や塩の移住者によって開かれ、松林と塩野が合併して松野になった。
万願寺
昔は相崎村と呼ばれ、五~七百年前に万願寺という寺があって霊験あらたかな仏像がおいでになり、千万の願いも聞き届けられたので寺の名を残したいと名づけた。
万開
万願寺の東方の高台に昭和二十一年七月から入植が開始され、万願寺開拓とその通りの村名となった。
二松
大きな松の木が二本あった。一本は元の船峅支所前にあり、もう一本は万行寺の境内にあったが、第二次大戦の際、松根油を採るために伐採された。二本の松がなくなってから、二本松の地名が二松となった。
野田
開墾地名で、野沢はもと野沢田開といわれた。
坂本
昔、明覚寺が坂本開拓の下にあった。そこへ行くのに西から行っても、東から行っても坂があったといわれた。
大野
昔は広々とした野原だった大野と、沼地が多くあった沢が合併して大野となった。
横樋
船倉用水ができる前、寺家の大池から樋を使って水を引いたことからつけられた。(原長田用水)
市場
昔、船峅繁盛の頃、物品売買の市が立ったところ。帝竜寺が三百余の寺坊を束ねていた頃であろう。
直坂
判然としない。縄文遺跡発掘地であったり、町屋敷、鍛冶屋敷などの小字名があり、狐塚の信仰名もあって、寺家と共に早くから開けたところであろう。
寺家
帝竜寺をはじめ多くの寺坊があり、帝竜寺がその本山であった。寺家は中世の寺領につけられた遺名である。
船峅の地名も時代によって変化しています。いつごろこんな地名ができたのでしょうか。また、これらの地名には、それぞれに歴史上深い意味があり、祖先のロマンも秘められています。私たちの五感を働かせながら、意味や五感に迫っていこうではありませんか。
船峅の大地には、美しい山や川があり、肥沃な田園風景が広がっています。
また、東西南北には、各地区を結ぶりっぱな広い道路が整備されています。
今日、精神的にも物質的にも豊かで便利になり、生活が向上してきました。
これは、一朝一夕ではできないと思います。
船峅の地域で、また、遠くから古里を離れた方々の中にも、命をかけ努力を惜しまず、郷里の発展のために尽力された方も多くおられます。
こうした地名から、祖先の姿が浮かび、息づかいが聞こえてくるようです。
「船峅のむかしがたり」
姉倉姫 富山市船峅

むかしむかし、みどりの美しい舟倉山に姉倉姫という女神さまがいました。その姫にはいいかわした補益山の伊須流伎比古命という神さまがあって、近く結婚する約束でした。ところが、能登の柚木山に能登姫という心のよくない女神がいて、たえず人のじゃまになるようなことばかりして、喜んでいたのでした。
「伊須流伎比古命が姉倉姫といっしょになれば、それだけ強い国がとなりにできることになり、わたしの領地がおびやかされることになる。これは、すてておけぬ一大事だ。何かよい考えはないものか」
と、いつしょうけんめいに考えたすえ、能登姫はありったけの美しい着物をえらんで身をかざりたて、山をおり、補益山の伊須流伎比古命の御殿へと急ぎました。
能登姫は胸の中で、
「姉倉姫と伊須流伎比古命が結婚する前に、伊須流伎比古命をだまして、わたしがお嫁さんになってやろう」
と考えていたのです。
能登姫はそれから何回となく伊須流伎比古命の御殿へ出かけ、美しくて、やさしい親切な女神のようにふるまい、いろいろと伊須流伎比古命の世話をしたのです。
すると、はじめは心をゆるさなかった伊須流伎比古命も、しだいに能登姫にかたむいていきました。とうとう伊須流伎比古命は、姉倉姫のことをすっかりわすれてしまい、朝から能登姫と、遊んでばかりいるようになってしまいました。
舟倉山では、
「伊須流伎比古命が能登姫と親しくていらっしゃるそうな。姉倉姫をさしおいて、ご夫婦になられるそうな」
といううわさが広まり、姉倉姫の耳にも聞こえてきました。
姉倉姫は、伊須流伎比古命を心から信じていました。けれども、毎日のように二人のうわさが伝わってきますので、もうこれ以上たえられなくなってきたのでした。
そこで、ある日、伊須流伎比古命のほんとうの心を確かめるために、ヤマバトを使いに出しました。ヤマバトは、日ごろから姉倉姫を心からなぐさめてくれる友だちでした。
ヤマバトは羽音高く、伊須流伎比古命の御殿へ姉倉姫の真心をこめた手紙を持って、飛んで行きましたが、思いもかけないことに、三時間ばかりたったころ、血だらけになって帰って来たのでした。
「これ、ヤマバトよ、どうしたのです。その血は」
姫が走りよってヤマバトを抱き上げますと、ヤマバトは苦しい息の下から、
「姉倉姫様、二人のうわさがほんとうであることを、この目ではっきり見てまいりました。私が、姫さまからの手紙を差し出しますと、伊須流伎比古命さまは、ろくに見もしないで、能登姫の前でいきなり引きさいてしまい、あげくのはてに、私は矢をかけられて追い払われてしまったのです。伊須流伎比古命さまは、お心がかわりました。まったく残念でございます」
ヤマバトはそう言い終わると、がっくり首をたれてしまいました。
「これ、ヤマバトよ。死んではいけない」
と、姫はヤマバトを抱きかかえて、励ましましたが、ヤマバトのからだはだんだんと冷えていきました。
それからの姉倉姫は、御殿に引きこもって、さめざめと泣いていましたが、やがて、あの二人がにくくてたまらなくなり、とうとう爆発してしまいました。
舟倉山と補益山との間に、たちまちはげしい戦争が始まりました。
どちらもはげしく石つぶてを投げて攻めあいましたから、やがて山にあった石という石は一かけらもなくなってしまいました。
そのうちに、この戦争のようすを見ていたとなりの布倉山の布倉姫が姉倉姫に深く同情して、味方になり布倉山の鉄を使って勇ましく補益山を攻めました。
越中(富山県)の天地はひっくりかえるようなさわぎとなりました。家も田も畑もめちゃくちゃになってしまいました。
そのころ、この宇宙をつくった高御産日神が、御殿を出て、ぶらぶらと雲の池のほとりを散歩していました。すると、どこからか聞きなれない音が聞こえますので、ふと池の中を見ると、気味の悪い煙が底の方から立ち上っていました。
高御産日神がじっと見ていると、はるか越中で、ものすごい戦争が巻き起こっていることがわかり、急いで出雲の国(島根県)をつくった大国主命に、ただちに戦争を中止するように使いを命じました。
そこで、大国主命は二通の手紙を書いて、両方とも今すぐ戦争をやめて仲直りするようにすすめました。
しかし、戦争はちょっとやそっとのことでは、やみそうにもありませんでした。
おだやかな大国主命もとうとう決心し、「からむし」(アサの一種)で、旗を五本作り、五つの色に染めあげて、立山の手力王比古命ら五人の神さまを先頭に、まず姉倉姫の舟倉山へ進みました。
姉倉姫は、五色の旗を見ると、急いで軍を舟倉山に引きました。姉倉姫は日ごろから尊敬していた大国主命の軍勢とすぐわかり、いままで自分のやってきた戦いのことを悔やんだのです。
姉倉姫は山の上にあった池に自分の姿をうつしてみました。すると、血やどろによごれた自分の姿がうつっていたのでびっくりしてしまいました。
やさしい姫の胸は、後悔でいっぱいになりました。
「ああ、これがわが姿か。心がかわれば姿までこんなにみにくくなるものか。いったいどうしたらよいのだろうか」
と、姉倉姫は身をふるわしてなげきました。
大国主命の軍勢は、舟倉山のふもとに着きました。そして、オキコヒメを山に登らせ、ようすをさぐらせました。
「姉倉姫は、山の上の池に身をひそめています。きっと水を利用して攻めかかる計画と思われます。ですから、池の水をなくせば、きっと降参すると思いますが」
と、報告しました。大国主命は、すぐ釜生彦に、山に横穴をくりぬくように命じました。
舟倉山の上の池はぐんぐん減っていきました。姉倉姫は、
「わたしが、もともといけなかったのだから、いっそここで降参してしまおう」
と、大きなため息をついて思いました。
ところが、味方になる人たちが、下夕や八尾や呉羽の村から、姉倉姫の一大事とばかり、ぞくぞくと舟倉山に集まって来て、大国主命の軍と戦いました。
しかし、大国主命の軍勢には勝てませんでした。姉倉姫は、柿梭の宮(上市町)まで逃げた時、もうこれまでと地面に泣き伏してしまいました。
柿梭の宮で降参した姉倉姫は、罰として呉羽の小竹野(八カ山・富山市)の山すそに流されて、機織りを広めるように命じられました。
姉倉姫といっしょになって戦った布倉姫に対しても、大国主命は、
「あなたの気持ちはわからぬでもないが、同じように姉倉姫を助けるのなら、機織りの仕事を助けてあげなさい」
と命じました。
続いて大国主命は、補益山の伊須流伎比古命と能登姫を攻めて、とうとう亡ぼしてしまいました。
まもなく姉倉姫は、許されて舟倉山に帰されましたが、ここでも熱心に機織りを広めたということです。
文 吉田律子
「たずねあるいた民話 大沢野」