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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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小羽天狗松   富山市小羽

 



 小羽小学校裏手の高台に生えていた大老松のことを、地域の人は「小羽天狗松」と呼んでいた。

 

 地域の人に話を聞いたところ、

「親から、遊んでいて帰りが遅くなると、小羽天狗松の天狗にさらわれるぞ」

とよく言われたと話してくれた。

 

残念ながら天狗にかかわる話は残っていない。今は大老松はなくなり、二代目の松が「清水記念公園」に植えられている。

 

清水記念公園
 清水家五代目にあたる清水康雄氏が巨費を投じて当地に建設したものである。清水建設の創業者・清水喜助は富山市(旧大沢野町小羽 )の出身。幼少のころから器用で、彫刻や大工の技に秀でた人物だった。長じて江戸に出、神田鍛冶町で大工業を創業した1804年が清水建設の創業年である。喜助翁の生家跡は清水建設発祥の地であり、その跡地が「清水記念公園」として整備されている。

御鷹山  富山市須原・土


 

 富山藩十万石領内には室牧村の御鷹山と、須原・土との境にある御鷹山との二つがあって、共に藩公の鷹狩りに当たられたところである。


 藩の家臣が鷹狩りに当地を来遊するときは、土の中川家に休息したもののようで、数年前に後ろの山の地すべりで、中川家の家屋が押しつぶされた。そのとき家屋の平物には、前田公の定紋梅鉢の彫刻がしてあった。また、この藩の家臣等の土産として持ってきた湯飲みその外、文書の貴重なものが所蔵されていたらしいが、しばしば火災に遭ったので、今は当時の文書はないそうである。


 土から御鷹山までの藩公の道筋は、土の部落で芝刈り、道作りをして、常用に服したらしいが、何しろ何里とある遠い道程なので、六郎平というここから先は、隣りの下伏・小羽をも誘って一本の道筋を縦に三等分して作業に従事したらしい。後にそれが下伏と小羽が元部落から遠くはなれて、飛び地を持つに至った由来であるとのことである。


 御鷹山は当時の最高の峻峰で、頂上は喬木類は少なく、灌木がわずかに茂るのみであるが、東には立山連峰が見え、北には日本海に白帆の去来するを眺め得る絶景の地で、南には飛騨の連山が肩に迫る仙境である。冬季にはスキーを楽しむアルピニストもたくさん押し寄せて、時ならぬ繁昌をみせている。


「大沢野町誌」

吉野村のことについて   富山市吉野

 



 吉野村は天正以降年と共に発展し、その最後の頃は、千軒もの採鉱夫の小屋建があったと伝えられる。これは吉野だけでなく小糸・伏木・舟渡を含めたものであろう。また鉱山開発後、今の吉野部落の東方俗称「くさり山麓字下反甫」の屋敷地帯から、どん坂にかけても吉加禰部落があったが、鉱山の衰退と共に、天保年代吉野に合併した。また、吉加禰部落には、鉱山全盛期において、その守護神として山王社があったが、布尻氏神に合祀された。


 この地方は古くから飛騨地方との交通があり、同地方との縁組も多く行われ、文化の交流もあって、その影響を受けることが大であった。然し旧吉野の家屋の構造は、越中様式に能登・飛騨の風を加味した一種独特なものであった。


 明治三十三年、金沢横山男爵によって鉱山が再開させられたとき、能登方面より大工・木挽等がやって来た。たまたま吉野では第三回目の大火の後であったので、これらの大工が主となって建築したわけである。現在全戸数改築のため当時の模様を偲ぶよすがもないのは残念である。これ等の職人の中、この地に定住したものもある。


 旧吉野の交通は、笹津を起点とする県道が狭いながらも部落の中央を通っていた外、三井浪岡鉱山用軌道馬車が部落の上段を通っていた。
 天正の鉱山開発に伴い、寛永・明暦に至り多くの他国者が入り込んで来たので、自然喧嘩口論はもちろん、数々の恋物語も生まれ、刃傷沙汰もあったらしいが、種々の秘話を包んで吉野は湖底に永遠に沈んだ。


 廃藩置県後放置されていたこの鉱山も、明治三十三年九月に至り、元加賀藩家老であった、横山男爵の手によって再開発せられた。時に吉野では第三回全焼後の悲惨な折柄でもあり、この再開発は部落民にとっては天来の福音でもあったが、やはり思わしくなく、最後には採算がとれなくなり、三年後にはまたまた廃坑になってしまった。この再開に当り、間歩坑という大きい方が四坑同時に採鉱せられたということである。その後明治三十七年には、神通鉱山というのが採鉱を試みたが、これも採算が取れぬまま一年後には中止し、ここに全く廃坑となって現在に至ったのである。


 吉加禰鉱山発見より、実に三百八十有余年、様々な多くの物語を秘めた、この吉野も昭和二十八年十月三十一日午後三時二十四分、永久に帰らぬ水底へ沈んでいったのである。


「大沢野町誌」

地名の由来   富山市下夕

 

 

東猪谷 
 細入村の猪谷と同地名が東西にあるので、区別する意味から東猪谷と呼びならわされたものである。

舟渡
 神通川を挟んで、猪谷との交通連絡上、舟の渡し場があったことから来たものであるという.

薄波
 長棟川の水が薄く山肌を洗うていたところから出たものといわれる。

牛ヶ増
 飛騨入りの諸物資を運搬するのに、この辺りより険しくなるので、牛を増して運搬したところより起こる。

 笹津・今生津・寺津・舟津と、津の地名が多い。津とは舟着場を意味し、往時陸運不便の折、水量豊かであったろう神通川が、貨物輸送の最大至便の交通路であったことを古老が証している。


 下夕地区の側に津が多いところからみても、当時の世相の様子が偲ばれる。寺津には、古い家の呼び名「たや」の呼称からも、由緒ある家があったと思われるが、火災等による資料の散逸のために確証はない。

 吉野部落は明治二十七年・三十年・三十三年の前後三回の部落全焼という猛火に見舞われ、これがため文献も見当たらず、その起因沿革は、村人の口伝によってしか知ることができない。吉野は天正年間鉱脈が発見されたことにより、一躍世に知られるようになった。この鉱脈発見の魅力により、葦の生え茂ったこの土地に因んで「葦野(吉野)」と名付けたものといわれている。


「大沢野町誌」

川木と山境   富山市舟渡

 



 飛騨のおびただしい粗材はいつも、神通川を利用して送っていた。また雪解けになると出水と同時に「川木」という薪材も、地方沿岸住民には重要なものの一つであった。


 舟渡・東猪谷は加賀百万石、西猪谷は富山十万石、中山横山は飛騨天領で、三ツ搦みで面白い話も多い。


 或る時の出水時、丁度用材流送中だったので薪に拾ってもよい「じゃみ」(比較的細かい流れ木)に交じって、天領の用材も沢山流れて出た。舟渡村の百姓は各々拾いに出た。

 

 初めは用材に手を掛けなかったが、やがて一人拾い二人拾いして、先を争って手頃なものを拾い上げ、なお百万石領を笠に着て、舟を持っているのを幸いに、西猪谷十万石側で拾い上げたものも、舟の後ろに縄で縛って残らず持って来た。


ところが天領から

「古呂材(板をとるために良質の大きいものを四尺から七尺に切ったもの)用材を拾いおる者は、速やかに届け出るべし、私に隠し持つ者あれば重罪に処する」

ということになった。慌てて裏の山に埋めたが、天領では余り届け出が少ないので、巡視に来た。


 西猪谷では仇討ちとばかり

「舟渡で沢山隠した」

と告げた。

 

 さア大変、役人が舟渡村へやって来た。真直ぐ裏山へ行って

「これは誰が隠した」

誰も答える者がいない。

 

 中の老人が一人進み出て

「お役人様、これは東猪谷の持ち山でございまして、手前共は一向に存じませぬ」

「然と左様か」

「はい間違いござりませぬ」一同の者やっと愁眉を開いた。


 役人は東猪谷に乗り込み、調べた揚句、早速猪谷から人夫を連れて来て、運び出した。舟渡の人達は罪にならないで良かったと内心ほくそ笑んでいた。

 

 役人は帰り際に

「以後この山から南の方を東猪谷の持ち山とする、わかったか」

といった。従来、谷が猪谷との境であったのが、このことがあってから、この山が境にさせられたという。


「大沢野町誌」