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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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籠の渡し  富山市蟹寺

 



 ここは飛越の国境、際立った山々は深い霧に包まれて、川音だけが心に寒く響いています。

時雨に濡れた細い街道は、やっと紅葉しかけた谷間をぬって見え隠れして続いています。


 時は永暦元年、秋の朝明け少し過ぎ、此の飛騨路を越中さして急ぐ二人の年若い女づれ、脚絆草履に身を包んでの旅姿で、気の毒なほど疲れた様はさも哀れであります。時々、物に脅える様に後ろを振り返り、振り返り、助けいたわり合ふて急ぐ様子は只人ではないらしく、疲れやつれた旅姿ではありますけれども、何処とは無しに気品の高さが、くっきり辺りの景色に浮いています。

 

 「御姉上様、あんなに騒ぐ音が近づいて参りました。さぁ御急ぎ致しましょう。
 折角、此まで人目逃れて落ちたものを、もう越中も間近い所で追手に捕えられなくてはならぬとは、あぁ情けなや。」


 「いや御姉上様、そんな不吉な事をおっしゃいますな。もう越中迄は三~四町、籠の渡しを越えたなら、どうにか逃げおうせる事も出来ましょう。気を落とさずに急ぎましょう。」
互いに励まし、よろめきながら、更に気を立て直して急ぎます。
 
これより先、平治の乱に平家一族の為に散々に敗られた源義朝は、残り少なくなった味方の兵を引き連れ、都を落ちて尾張の国まで逃げ延びました。義朝は此処で兵を募って、もう一度都へ攻め上ろうと考えたのです。そこで長子の悪源太義平も父の命令で、北国路で兵を募る事になり、先ず美濃から飛騨の国へ進みました。

 

 間も無く、父義朝は元自分の家臣であった長田忠致の為に、尾張の国で非業な最期を遂げられたといふ報せが、飛騨路で義平の耳に入りました。義平の驚きは一通りではありませんでした。


 その上、折角募りかけた兵も、皆、力を落として散り散りになってしまいました。さすが平家の人々に鬼の様に恐れられていた悪源太義平も、最早、兵を募る意気も無く、最後の手段としてこっそり都に忍び込み、清盛の首を窺おう考えて、姿を変え、越中を経て都へ上りました。


 後に、とうとう運も尽き果て平家の武士に見明かされ、近江の国で捕えられました。そして天下に聞こえた荒武者も二十歳を最期として六条河原の露と消えました。
 
 今しも飛騨路を急ぐ女旅人こそは、平家の追手に追われて義平の後を慕う妻とその妹であります。漸く飛騨の中山に辿り着きました。川を隔てて越中の国、蟹寺村です。岸に立てば、底知れぬ遥か眼の下に宮川の流れが白く渦を巻いています。藤蔓を寄り合わせた怪しげな綱が細長く向うの岸に引かれています。


 丁度、籠は岸近くに乗り捨ててありますが、一度に二人は乗れそうにもありません。急ぐ心に、川向かいの渡し守を声の限りに呼びましたが、川の瀬音に邪魔されてか、心安らかに未だ眠りについているのか、出でくる様もありません。


 「さぁ姉様、急いで先へ御乗り下さいませ。自分で手繰って渡れない事もありますまい。川の上まで出られたらもう大丈夫でしよう。今の内に早く、早く。」


 「だが、お前一人をこちらの岸におくのは・・・。」


 「御心配下さいますな、早く。あれ、あんなに追手が近づきました。」


 「では、御先へ御免、運良く共に渡れる様、八幡様・・・。」


 籠の懸綱試しもせず、急ぎあわてて乗りました。追手の影は次第に近づいてきます。あやしげな手つきで綱を手繰ってゆく姉。我が身の危険を忘れて、姉の身を気遣って立つ妹、またしても追手の響き、姉も妹も只一生懸命です。


 「あっ」

 

 焦りに焦って綱を手繰っていた姉の籠は、綱を離れて宙に舞って落ちて行きます。懸綱の根本が切れたのです。狂い出した様に驚き叫んでいる妹の声に送られて、姉の姿は宮川の急流深く消えて、再び見えませんでした。

 

 追手はもうすぐです。頼りの姉も今はなくなったこの世に、敵手に落ちて永らえるより、冥土の旅も御姉上様と、目を閉じ、合掌しばし、谷底に身を躍らせて、姉の後に続きました。


「細入歴史調査同好会 村の今昔」

雨乞滝    富山市楡原



 数年前までの飛騨街道は、荷車、荷馬車の行列、商いする人、旅する人の二人一人また三人というように、繁華とはいえないが、山村の道路にしては本当に珍しい人通りでしたが、飛越鉄道の開通は、この街路を今はもう淋しいものにしてしまいました。道の両側にまばらに建ち並ぶ楡原の家並みを離れて、上へ約二百メートル行くと、その左手に赤松の老樹が鬱蒼と生い茂って、さびれ行く飛騨街道を一層淋しくさせています。


 その松林の横を谷川に沿って、薄気味悪い細道を押し分けて行くと、この谷川が神通川に落ちるところが、高さ五十メートルもあろうと思われる大きな滝になっていて、雑木が薄暗いほど茂っている中に、ものすごい音を立てている滝の近くに行くと、急に体が寒くなります。この滝を雨乞滝といっています。


 雨乞滝の名の起こりは、ちょうど今から五百数十年前のある夏のことです。

 

 来る日も来る日も暑い炎天ばかり、谷川の水は枯れる、田畑は乾する、作物は萎える。遂に飲料水までも欠乏するような状態になってしまいました。村人たちは、ただ

「これでは駄目だ、これでは駄目だ」

と、天をうらんでばかりで、どうする事もできません。

 

 そこで、これを見かねた上行寺の住職大徳和尚が考えに考えあげた末、村の滝に雨乞いする外にないと思い立ち、この滝に八大龍王を祈り祈祷を始められたのでした。

 

 祈祷を始めるや否や、不思議にも晴れに晴れきっていた空は急に曇って一時に大雨が降り出しました。そして、それが二日も三日も降り続いたので、乾ききっていた田畑は腹いっぱいに水を吸い、萎えちぢんでいた作物は生き生きと茂り、今まで望みを失い、不安な日を送っていた人々は大変喜びました。雨乞滝の名はこの時から言い伝えられたのだそうです。


 それから後、雨の降らない年があれば、和尚さんが一週間お寺で雨乞いをして、それで降らなければ八日目から滝の側に小屋を建て、そこで祈祷して、二十一日目までどうしても降らなければ、和尚さんが真心をこめて祈祷していないためだということで、寺を追い出すことに決まっていました。


 二十四代目の天悟院という和尚さんが、ある年雨乞いをし始めたが、一週間経っても二週間経っても少しも雨が降りそうでないばかりか、かえってお天気がよくなるので、村の人々が大変怒って、追い出す用意をして待っていますと、二十一日目の夕方、ゴーっと大雨が降ってきたので、その和尚さんが漸く助かったという話もあります。しかし、今ではそんな決まりはありません。


 昔はこの雨乞滝の中ごろに大きな穴があいていて、その穴が神通川まで通じ、龍が穴の中から川へ、川から滝へ、行き来していたという事ですが、大地震のため今ではその穴が砂で埋まって、跡が大きな溝になっています。


 けれども、龍は今も尚その所に住んでいて、雨乞い祭りには、その龍が天の雲を呼んで雨を降らせるといわれています。


 毎年七月一日に、雨乞滝の横の八大龍王を祀ってある御堂の前で、雨の降る年はお礼として、又、雨の降らない年は雨乞いとして、和尚さんの読経によって盛大な祭りが行われます。


「細入歴史調査同好会 村の今昔」

風除けの松林   富山市楡原 

 



 風除けの松林は、大昔から楡原の南口にあり、大風の被害から村を守ってきた。しかし、発電工事のため、今は北陸電力の所有地となって、その松林も見られなくなったが、「風除け(かざやけ)」という地名は今も残っている。


 また、この松林は荷車の休憩所でもあった。飛騨から富山の農家に働きに来た手間馬をつなぎ、ゆっくり食事をしたり、昼寝をしたりする場所でもあった。


 当時は目尺二メートルもあったという天狗松も今はなく、飛騨街道は国道四十一号線と名称を変え、往来した人や馬に変わって自動車の流れが続いている。


語部 大上賢治
「細入歴史調査同好会 村の今昔」

畠山重忠と丹後の局  富山市楡原

 

 

 

 畠山重忠は鎌倉時代の逸材で、智仁勇の三徳を兼ね備えた名将として有名である。


重忠は武蔵の人であって幼名を氏王丸といった。父が畠山荘司であったので荘司二郎と称した。元来重忠は平家方の武人であったが、源氏とも大変縁故が深かったので源氏に味方し頼朝に帰属した。


 重忠は石橋山の戦いを始めとし、数々の戦功を立て其の行動は、武人の典型とされた。
頼朝の妾に丹後の局という女人があった。局は頼朝の寵愛を一身にあつめ身重になった。
そのとき、妻政子には未だ実子がなかったので、嫉妬にもえる政子は、男の子でも生まれたら後嗣問題など起こるのを恐れ、局を殺害して後顧の憂を断ちたいと密かに謀を企てた。

 

 重忠公は情深い人であったのでこれを不憫に思い、密かに局に知らせた。局は驚いて諸国流浪の旅路についた。斯くする中に月満ちて、摂津の住吉神社で人の情にすがり産み落としたのが男の子であった。この子こそ小治郎朝重で、住吉家の二代目となり幼名を吉寿丸と呼んだ。局は子供を伴い永い年月を旅で過ごした。


 ところがその後、重忠も頼朝夫妻や時政にいたく憎まれ、今は鎌倉にいないとの風聞を耳にした。局は何とかして

「一目たりとも御目にかかり厚恩を謝したい」

と探し廻る中、楡原に侘住いして居られることを聞き、なつかしさのあまり、足も地につかぬ疲れた旅を重ねて漸く楡原につくが、慕う重忠はすでにこの世の人でなかった。


 局は悲歎の涙にくれ墓前にささやかな庵を結び、髪をおとして尼となり朝夕の供養を怠らず、子孫を永くこの楡原に留めることにして果てた。時に承元三年五月三日であって、住吉家の初祖清光尊尼はその人である。小治郎朝重は、豊後守の娘を娶り二代目を相続し、その後綿々として相継ぎ、現在の住吉祐蔵は三十八代目に当るという。


 重忠は頼朝にうとんぜられて楡原に落ち来りし時、真言宗の一宇を建立した。この寺は後に法華宗に改宗し寺号を改めた。今の不怠山上行寺がそれである。
頼朝が、かつて重き病気に罹れた時、人あり

「これには犀の生角を削って作った薬を用いれば平癒せん」

と。


 頼朝、これには勇武にして力量、衆にすぐれた重忠を命じた。公は神通、寺津が淵に棲む犀を苦心の末得て之を献上した。頼朝は

「これは死犀より得たものだ」

と言って不興のあまりこれをつき返した。


 重忠は甚だ遺憾に思い、この犀角に、三帰明王を刻み常に兜の中に収めて戦場を馳駆した。この仏像は上行寺の什宝として大切に保存せられ、毎年八月十五日御虫干法要が厳粛に行われている。また、重忠の墓前祭は、毎年七月二十二日の命日に村人が参詣して供養にあたっている。
 

「細入村史」

 

雨乞い瀧   富山市楡原

 



 楡原の石繰谷が神通川に出るところに五メートル程の雨乞いの瀧があった。
 

 今から五百数十年前のこと、大変に暑い年のことで、日照りがつづいて水が全くなくなったとき、楡原上行寺の大徳和尚が、

「これは、村の瀧に雨乞いする以外にはなかろう。」

と考えた。そして祈祷をすると、どうしたことか、急に大雨になって田畑はどうにか生きかえった。雨乞い瀧の名はこのときから起こったのだと伝えている。


 こんなわけで、それから雨の少ないときは雨乞いの祈祷をするようになった。
この瀧の中ほどに大きい穴があって、それが瀧の行き来をするところだとも伝えている。


細入村史