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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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大沢野用水 富山市大沢野

 



 今から180年ほど前、大沢野は砂や石まじりの土で水も少なく、作物も実らない荒野でした。人びとは、

「水さえあれば、広々としたこの土地にたくさんの新田を開くことができるのになあ・・・」

と考えていました。

 すぐ近くには大きな神通川の流れがあります。しかし、川底が大沢野より低いので、遠くはなれた上流から取って、長い用水路をつくらなければになりません。


 1819年(文政二年)ここをおさめていた富山藩は、寺津村(下夕地区)から水を取り入れ、神通川の東岸の山腹を通って約8キロメートルの水路をつくり、大沢野町を開こんする計画をたてました。しかし、水路のと中に加賀藩領があり、笹津村・布尻・町長など、七つの村を通ることになるので、1865年(慶応二年)に工事に入りました。

 

 と中の村々にめいわくをかけないように、水路が村を通るときはトンネルにしたり、こわれないようにふちを大きな石でかためたりするむずかしい工事でした。苦労のすえ、ようやく1868年(明治元年)に用水ができ、新しい田畑が少し開けました。工事をした人も住みつき、大沢野に初めて部落もできました。


 ところが、開こんもこれからという時に、1870年(明治三年)の大雨によって、用水がこわれてしまいました。用水をなおすにはまたたくさんの人と力とお金がかかります。それにむずかしい工事もしなければなりません。工事をしようとする人が何人かいましたが、思うように工事が進まず、と中で中止するしかありせんでした。世の中も新しくかわったこともあり、長い間用水はそのままでした。


 このようすを見て、富山市に住んでいた内野信一は、自分の財産をなげうって、1902年(明治三十五)に用水の改修工事と開こんの仕事にのりだしました。内野信一は、五十嵐政雄・田村次六・碓井又司次などといっしょに、大沢野開こん配水株式会社をつくり、開こんする人たちの家を建てたり、その人たちの心を養うために神社や寺を建てたり、開こんに必要な機械をかい入れたり、技術をたかめるための講習会を開いたりしました。努力の結果、用水もだいたい掘りかえされ、少しずつ開こんも進みましたが、用水の水の量が少ないために開こんが思うようにできませんでした。


 豊富な水を流す用水にするためには多くの費用がかかります。そこで国や県から助成金をうけ、ようやく1924年(大正十三)に、りっぱな用水に改修できました。その後開こんはどんどん進み、むかし作物も育たなかった荒野は、見わたすかぎりの田畑にかわりました。開こんに参加した人たちの喜びはどんなものだったでしょうか。高内の広場には大沢野の発展のもとをきずいた内野信一の銅像が立てられています。


 現在用水の取り入れ口は、神通第二発電所ができたため、第二ダムにうつされ、(寺津からダムまでの水路は、神通川にしずんでいます)水路は全部コンクリートになり、笹津・春日・下夕林・稲代・加納・西塩野・高内・長附・上大久保の田をうるおします。西大沢の神明宮のわきに三ッ分水があり、ここから、春日方面、稲代・加納方面、高内・長附方面、へと用水は流れています。用水の管理は大沢野土地改良区の人たちがしています。


大沢野町教育センター

「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」

船倉用水  富山市船峅

 


 
 大むかし、神通川の下流流いきがもち上がって、船峅の台地ができました。

 

 今から180年ほど前、そこは松や雑木の林、そしていばらやくまざさのしげる荒野でした。この地には、御前山のふもとから流れ出る二つの川(虫谷川と急滝川)といくつかのため池があるだけでした。そこに住んで田や畑や少しの田をつくっていた人々は、

「用水さえあればここにたくさんの新田を開くことができるのになあ」

と考えていました。


 そのころ、と波で十村役(村長さんにあたる)をしていた五十嵐孫作という人が、舟倉野を開こんする計画を立て、1796年(寛政八年)に加賀藩より開こんの許しをもらったので、孫作が測量・設計・工事の責任をもつことになり、その子のあつ好が父を助けました。


 また、算数学者の石黒伸由は用水のかたむきや水量を考える仕事、十村役の金山十次郎と十左衛門が会計と事務、大工の庄蔵は水準測定の見取図をつくる仕事にあたりました。


 太田薄波(下夕地区)というところを流れる長棟川から水を取り、神通川右岸の山腹を通って十四キロメートルの水路を引くという大仕事です。たくさんの村人が、たいまつをかざして山の中腹にならび、それを対岸からみてかたむきを計算したりしました。測量と設計だけで13年かかり、1810年(文化七年)からようやく工事に入ることができました。


 山がけわしいので、岩場をほりくだき、幅5尺(1.5メートル)深さ3尺(1メートル)の石身の水路をつくる仕事はなかなかはかどりません。たがねやかなづちなど、道具はたった3種類、巨大な岩石にぶつかると、そこに草木を集め、燃やして熱し、水をかぶせてくだいていくという方法をとって、工事が進められました。近くの山村から多くの人々がかり出されました。中心になった人たちは、昼も夜も睡眠を忘れるくらいなって働きました。


 7年の年月が流れました。その間にも5人の死者とたくさんの負傷者が出ました。費用もたいへんなものでした。計画の3倍以上の費用がかかったといわれています。そのため、後になって用水の計画者は加賀藩から罰せられたという話も伝わっているくらいです。


 1817年(文化十四)用水に初めて水が通り、少しばかりの田に植えつけがされました。秋になってりっぱな稲が実り、大きなお祝いの宴会が直坂で開かれました。工事に参加した人たちの喜びはどんなだったでしょう。


 旧船峅村のうち、舟倉新・横どい・直坂・中野・二松・万願寺新・大野・松林・小黒新・沢の10部落の田を、このかんがい用水がうるおします。水を分けるに当っては、分けへだてなく公平にということがまず考えられます。直坂地内の風宮不吹堂のわきに三つの分水があり、ここから寺家方面、二松・万願寺方面、横どい・大野方面へと用水が分かれて流れます。


 不吹堂は1890年(明治二十三)に風害をおさめる神をまつって建てられたものですが、後の人々がここに舟倉用水の記念碑をつくりました。その碑は、用水完成に力をつくした人々に対する、農民の永遠の感謝の気持ちを表したものです。また、工事のぎぜい者をとむらう石碑もできています。


 舟倉用水は何度か災害に会い、改良されてきました。1851年(嘉永三年)の大災害の時には椎名道三が活やくしました。


 1914年(大正三年)の大洪水には、その害を元にもどすのに、5800人の人夫と4万びょうの土だわらを使ったそうです。


 現在では、船峅土地改良区の人たちが用水を管理し、水路は全部コンクリートでかためられました。そこを流れる豊かな水は、400ヘクタールもの水田をうるおしています。
                                   

「大沢野町誌 上巻」
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」

大久保用水 富山市大久保

 



 大久保の土地は、ずっと大むかしは荒れはてた川原でした。

 

 今からおよそ1100年ほど前に松本武太夫の一族が住みつき、小さな村ができました。大久保の土地が開発されだしたのは、今からおよそ200年ほど前(江戸時代の中ごろ)からです。

 

 そのころ、大久保一帯は小石まじりの荒れ地で、草かり場、たきぎとり場でした。江戸時代に入り、人も住みはじめました。

 こうして大久保の土地に住む人々は

「飲み水と、田畑をうるおす水がほしい」

という願いをもつようになりました。

 

そんな時、富山藩は、ようやく仕事にとりかかり、新田開発と用水を引くことになりました。

用水を引くには、神通川の水を引くしかなく、笹津より水を取り入れれば、大久保に1000石の米がとれるようになるとみこまれました。

 しかし、すぐに工事にとりかかれませんでした。そのころ、笹津は加賀藩の土地でしたので富山藩十村と加賀藩十村との話し合いがおこなわれ、笹津へ入ることが許されました。


 工事は、はじめに用水口をきめることから手がけました。お金はたくさんかかるが、大久保への水引はできるということが分かりました。

 1741年(寛保六年)よりはじめられた大久保用水の工事は、1765(明和二年)片口喜三郎が加わり、工事もさかんになりました。しかし、がけくずれが起こり水もうまく流れなかったようです。

 

 藩の努力と農民の努力によって、ようやく1777年(安永五年)田畑に水が入るようになり、任海村(新保)岡崎孫治郎が500石の新田開発願いを出しました。孫治郎は、全財産をつぎこみがんばりましたが、用水を思うようにつくることができませんでした。その上、干害、水害、強風のため、作物も実らず生活もできなかったので、大水でこわされた用水の修理もあきらめてしまいました。


 こうした悪い条件でしたが、将来のことを思い藩主前田利謙は、大久保開発を強化しました。ちょうど、その頃ひだ街道を通って運ぶ塩荷が多くなり、大久保一帯に人が多く住みつき、開発田も多くなりました。そのため用水を広げる修理をしなければならなくなりました。

 

 1806年(文化三年)富山西町の商人岡田屋嘉兵衛が、東大久保の広い土地に目をつけ、大久保用水の改修に力を尽くしました。
 嘉兵衛はたくさんの財産をもっており、自分の財産を使って改修しました。この改修は取り入れ口を岩木から長走に移し、新しい用水路をつくる大工事でした。そのため働く人は4000人ほどかかるので、大久保だけでは足りないので、他の郡からも2000人ほど出すように命ぜられました。

 

 また、大工事でたくさんお金がかかるので、そのお金をつくる方法が考えられました。まず、はぜ(ろうそくの原料)の木を植えたり、ひだ街道で運ぶ塩を10000俵ふやして、その利益を用水路工事に使いました。


 工事は、じん次郎(嘉兵衛の子)が、日夜、寝食を忘れて働きました。工事は、決して楽ではなかったようです。ひだおろしの寒風、日照り、大水などの自然災害は、財力と気力をなくさせました。また、大石まじりの土地は、かんたんな道具(つるはし、もっこ、石割のみ、たがねなど)では、なかなかはかどりませんでした。また、トンネルを掘る時、ちょうちんを照らし高低を測りましたが、大変むずがしいものでした。

 しかし、嘉兵衛にとっては

「1000石の美田にしたい」

という気持ちが強く、やめるわけにはいきません。

 

 一方、寒風で働く農民たちは

「苦しいめにあって、ちっとも楽にならない」

と、あちこち不満の声があがりました。じん次郎の小屋、西町岡田屋へのうちこわしなどがあり、大変困難をきわめましたが、1813年(文化十年)に、幅6メートル、長さ7600メートルの大久保用水が完成しました。


 のちに、明治時代に入り、大久保用水の水は塩の発電に利用されました。大正から昭和のはじめには、ひだから切り出されたひの木や松を運ぶための流水も利用されました。


 「神通川 たえぬ流れを 引き入れて 志おのの里に 千町田」

 これは、岡田屋嘉兵衛(のちの三輪日顕)の孫、為敦が読んだ歌。今のきばん整備された田が広がる大久保の土地も、むかし川原であったことを思い浮かべると、このような美田にするまでの人々の苦労がしのばれます。


大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」

畠山重忠公の墓所によせて    富山市楡原

 



 この高台は「館」といわれ、戦国期の永禄十二年(1569)能登の守護畠山義則が楡原付近一帯を治める居館のあった場所である。そして、いざ戦乱になると、背後の大乗悟城と南の楡原城に立て籠もった。


 重忠墓所について奉行所からのお尋ねに対し、元禄九年(1696)村役人は、「すでに真言宗であった頃からを菩提所として弔ってきたと伝え聞き候」と答えている。ちなみに、墓地は昭和十五年までは上行寺領となっていた。

 往時からの言い伝えによると
 将軍源頼朝が重病にかかったとき、易者が、

「生きた犀の角を煎じて飲むと病がなおる」

と言上した。これを聞くや頼朝が忠誠勇武な重忠を呼び、犀角を直ちに用意するように命じた。
 

 重忠は急ぎ、犀が棲んでいるときく神通川の寺津ケ渕にたどりつき、法雲院住職に祈祷を願って水中に飛び入った。死闘の末、息の根も絶えだえの老犀の角を取り、早速頼朝公に献上した。 

 ところが、かの易者が角を見るや、

「これは死に犀の角なり」

と重忠につきかえした。


 このことから、重忠は頼朝の不興をかい、逆臣の身に一転してしまった。重忠は憤まんやるかたなく、悶々の情を抱きながら犀角を懐に楡原の里に戻ってきた。

 重忠公はここ楡原の館で犀角に「三歸明王」を彫って自分の守り本尊とし、謹慎の日々を過ごしていた。ところが、重忠が楡原にいるということが鎌倉方に知られ、重忠主従六名もろとも追補の者の手によって、館の東-御前山で非業の死を遂げた。時に元久二年(1205)六月二十二日、重忠四十二歳であった。

注 

 文献によると、重忠は北条義時の攻めにあい、元久二年の同日、武蔵二股川(現 横浜市旭区)で戦死とある。
 

考えをめぐらしてみると

一、能登守護職畠山氏の祖先祭礼の一つとして、重忠を弔ったものか、或いは楡原の地で戦死した一族の将を葬った塚とも考えられる。

一、重忠伝説は真言聖らによって、不運な武将であった重忠追善供養のために、丹後の局の話しとともに語り伝えられてきた可能性がある。なお、基壇の小石塔群は近くから寄せ集めたものであろう。


詳細は「細入村史」参照

「楡原 畠山重忠公墓掲示板」

御前山雨乞岩屋祭礼    富山市船峅

 



 御前山頂上から急な坂道を下り、沢つたいに三十分程度歩くと巨大な岩がある。眼下に神通川、飛騨街道が一望に見渡せる。この岩屋のあるところは尾根筋より二分下がりのところで、寺

家集落の領域に入るといわれている。

 

 この大岩の基部には大きな洞窟があって、その中に祠があり不動尊が祀ってある。昔から雨乞いをすれば大変霊験があり、旱天続きになるとこの雨乞いを心待ちにしたといわれている。

 

 昔、何十日も日照りが続いたとき、ここに不動尊を祀り、雨乞いをすると六月十三日に初めて雨が降ったということで、今でも毎年六月十三日に雨乞岩屋祭礼を行っている。平成十七年からは十三日前後の土曜日にするという。帝龍寺が社僧として祭礼を行っている。


(平井一雄 船峅山帝龍寺「年間諸行事表」のこと)