加賀沢の史跡・見学ポイント0「表紙」・「紹介」
「表紙」
「紹介」
1 掲載を終えて
『神通峡かいわいの昔話集』112話の掲載が先ごろ終了しました。
作業の開始が昨年の8月28日でしたから1年と4ヶ月、完了まで5つの季節が過ぎたことになります。
元来怠け者の私が全話を最後まで掲載出来たのも、
かつて新聞社の取材に対して
「掲載終了は来年(2017年)末」
と応えておいたからではないかと思います。
掲載期間中、自分がしたあの予告が脳裏に蘇り、
常に掲載をせかされていたというのが実情です(笑)。
公言することが締切効果となり、良い具合に作用したようです。
期限に間に合わず、物事をやり残しがちな私には、
期限内にさっさとやり終えてしまうことの意義を知り、喜びを味わう良い機会となりました(笑)。
人間は誰しも人生いつ終わるか、
あるいはやりたいことをやれない状態になってしまうかわかりません。
やるべきことややりたいことは間を置かずさっさと済ませて次の課題に向かうことはとても気分が良く、かつ大切なことだと思うようになりました。
2 佐田 保氏への謝意
さて、掲載当初に明らかにしておいたことですが、
この昔話集112話は、神通峡地域にお住いの佐田 保氏の企画・編集によるものです。
氏は、散在していたこの地域の昔話を様々な文献やパンフレット等から集め
それを1冊の冊子にまとめられました。
口承者を訊ねて聴き取りをして文字の形にしたものもあったようです。
氏はまた、まとめたものを読む側の立場に立ち、
集落ごとの分冊にしたり、子供向けに絵本のようなブックレット形式にするなど、
様々な出版の形態を工夫し試してきました。
その努力と苦労は並大抵のものではなく、
これがなかったら自分が故郷の昔話を全て読み切ることもなかったのではないかと思います。
地域の昔話が一つにまとめられたものとして身近にあったからこそ、
それを短い期間に読んで全体のまとまりとして捉えることも出来、
他の民話集と比較してこの地で育まれてきた昔話の特徴を把握することができるというものです。
佐田氏のこの昔話の集大成は、地域の昔話の研究や創作の拠り所となるものです。
3 今後のこと
この掲載の間、富山県内の『黒部の民話』や『立山開山伝説』、東北地方の『遠野物語』を読む機会がありました。
どれも内容がとても興味深く、新鮮な気持ちで読み進めることが出来ました。
そのどれにも共通する部分があるとともに、それぞれが独自性を備えているように思えました。
共通するところは、日本文化としての共通性や人間としての普遍性によるものであり、
独自なところは、それぞれの地域のもつ独自の環境や文化・歴史の必然性に依っているのではないかと感じました。
神通峡の地域おこし運動を始める際、
理念の一つとして掲げたことに「温故知新」があります。
地域おこしには、
これまで祖先が営々として築き上げてきた伝統や文化をそのまま保存踏襲するだけでなく、
それを基礎として新たな価値を付け加えていく文化創造的態度や姿勢が必要なのではないか、
それが、地域おこし運動に生命力を与えていくものとなるのではないかと考えました。
伝統文化もそれが形成されていく過程では、
その時その時の創造的営みにより出来上がって行ったものだ思うからです。
まずは、先に述べた他地域の民話や伝説との比較検討により、
この神通峡の昔話のもつ普遍性や特殊性をもう少し鮮明に認識したいと思います。
そのために、観点をいくつか定めて一話一話を分析して全体を俯瞰できるように一覧にし、
客観的に眺められるようにしてみたいと思います。
その作業を元に、他の民話や伝説との比較検討を通し、
神通峡の昔話のもつ意味や価値、普遍性や特殊性を内側から捉えていきたいと考えています。
火の番丁と夜回り 富山市二松

文政年間から町屋敷といわれたように、道の両側に家が並び、市街地並に整理されていた船峅地区は、特に南風が強く、鶏の鳴かぬ日があっても、風の吹かぬ日はないと言われたくらいで、そのため、火災には特に注意をはらい、大火の発生しやすい南風の強い晩は、夜回りをかねて、火の元の用心につとめられていた。それが火の番丁である。
いつの頃から始められたものかは不明であるが、共同で村を守ろうという精神から始められたものであると思う。
拍子木をたたき、錫杖を鳴らし、南は役場前(現土地改良区)、北は急滝川の橋まで回り、終われば隣家に申し送り、風の止むまで、また必要がなくなったと認めた時は、各自の判断で切り上げた。
「開村百七十周年記念 二松のあゆみ」
宮腰用水 富山市小羽

取り入れ口は、八尾町桐谷部落の川尻というところで、九婦須川から引いています。八尾町の桐谷、宮腰を通って大沢野町根の上、土、下伏までつづいています。
この用水は、1848年(嘉永のころ)に取りかかり、1863年(文化三年)に宮腰まで通しました。
その後、八尾町の北谷・岩屋・かし尾・井栗谷まで引かれ、1867年(慶応三年)に分水されて大沢野下伏まで引かれました。
根の上村の半助、土村の六平、下伏村の九左衛門、そのほか、八尾町がわの地主たちが、富山藩主の前田氏に何回もお願いして開発にあたりました。
山や谷の多いところでの工事は、農民にとっては大変なふたんでした。中には、かざいどうぐを売っても、土地をはなれず開こんに力をそそいだ人もいました。
そのおかげで、山の頂上まで水田になりゆたかになりました。