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『蟹寺の史跡・見学ポイント』

 

22  蟹寺発電所(P27)
 
 蟹寺発電所は、大正十四年( 一九二五)八月に一号機が運転を開始、二号機は翌年( 一九二六) 三月に運転を開始した。最大出力は五万キロワットで当時の東洋一であった。
 新設の頃は五十人近い勤務員がいたが、昭和三十年代に、設備近代化によって一人制御方式( ワンマンコントロール) が採用され、さらに昭和四十五年( 一九七〇) 八月以降は、所長以下四名という寂しい形になり、ついに昭和五十年( 一九七五) 十二月、遠方制御方式が完成して現在は全くの無人運転である。 
「電力史誌90年」参照

 

 

 

 

『蟹寺の史跡・見学ポイント』

 

21 蟹寺発電所導水管(P27)
 
 宮川上流の打保で取り入れられた水は、宮川沿いに連なる山中に掘られた導水路を通り、蟹寺まで運ばれる。水路の長さは、
実に一四・三五kmに及ぶ。そして貯水槽から二本の導水管を通して放水される。落差百三十四・五メートル、使用水量毎秒四百三十六立方メートルである。
 この水によって二つの発電機が回され、最大出力五万キロワットの電力が作り出される。
「細入村史」

 

 

『蟹寺の史跡・見学ポイント』

 

20 籠の渡し跡(P25)

 籠の渡し場までの道筋を辿ってみると、城ケ山の峠から蟹寺の加藤剛宅と土蔵の間の道(道路拡張前は石畳であった)を通り、高田英弘宅裏の石垣沿いに進み、蟹寺トンネルの上を横切り、清水の流れ水と関電作業道が交差する箇所の斜面をわずかに残る痕跡から川筋に下りたところが籠の渡し場であったと考えられている。今は草が生い茂り、通行することができなくなっている。
 なお、江戸末期に使用されたとされる籠渡しの材料が加藤剛宅から発見され、関所館に展示されている。
「細入村史

 

 

『蟹寺の史跡・見学ポイント』

 

19 五郎兵衛屋敷跡(P24)
 
 籠の渡しで財を成し、街道筋に屋敷を構え細入の大旦那とまで言われた。五郎兵衛は脇本陣役で幕府天領の見分け役で宿屋では十人雇い西山の開田をした。本陣役の井伊間兵衛は機織りと運送業をして土蔵が七つ、二~三十人も雇っていた。
 両家は、道路の建設や橋梁の建設によって籠の渡しの中街道、西街道を分岐する要路としての価値がなくなったことにより、没落していった。今は五郎兵衛屋敷跡の石垣のみがその名残を留めている。
「細入村史」

 

 

『蟹寺の史跡・見学ポイント』

 

18 大岩と稲荷の祠(P23)

 高田英弘宅の前にある大岩は、約百九十二トンあると推定され、岩の角が丸くなっていることから、上流から流されてきたものと判断される。この岩にある祠は、太平洋戦争時代に高田鶴太郎大工が稲荷の神霊を分割してここに建立したものである。
「細入村史」