『猪谷の史跡・見学ポイント』
□ 表 紙
はじめに 猪谷の史跡・見学ポイントの紹介地図
『蟹寺の史跡・見学ポイント』
24 蟹寺の紹介2/3(P29)
大正九年( 一九二〇) には日本経済の発展に伴い東洋一と言われるマンモス水力発電所「出力五万キロ」の建設構想が発表された。村人、ないし一般の人にとっても想像を絶するものであった。
当時村の人口は約一五〇人ほどであったが、工事の最盛期には人口三〇〇〇人に達したといわれ、一四年( 一九二五) に完成し、関西電力の建設当時の集落状況図からは、都会並みのハイカラな生活様式であったことがうかがえる。この建設には村人も協力し、その対価として発電所の貯水槽から農業用水への分水と電灯一〇〇灯の永久無償供与を契約し、その記念碑が城ケ山に建立されている。この契約によって、田が開墾され、消火栓の設置や住居前の融雪装置など電灯と共に便宜を受けることとなった。
当時の運送力、技術力の乏しい中、五年の歳月をかけて建設され、中学校の教科書に写真まで掲載された発電所も時代の変遷により昭和五〇年( 一九七五) 十二月笹津制御所からの遠隔制御運転によって無人化され、それまで従事していた村人や社員は他へ配転となり、宿舎や社宅は撤去された。発電所の社員やその家族によって活気に溢れていた村も閑散となり、当時盛んだった村歌舞伎の引き幕だけが当時の面影を語っている。
昭和五〇年代に入り、五三年( 一九七八) に地区内道路拡幅工事により家屋の移転が始まり、翌年には蟹寺トンネル掘削工事に着工し、五五年( 一九八〇) に完成した。主要道路であった古川~猪谷線は国道三六〇号に昇格したものの、県境を縫うような道路であったため冬期間中は通行ができなかった。そこで、年間を通じた交通の確保を目指し改良工事が進められた。中でも現在の越路トンネルは富山県側工事区間の主要工事であった。その越路トンネルも平成十二年( 二〇〇〇) 八月竣工し、飛越を結ぶ大動脈が完成した。
現在の国道三六〇号線は、幾多の歴史を綴った街道の代わりに現代産業や経済の発展のため大量の物資や人を運んでいる。
『蟹寺の史跡・ガイドブック』
24 蟹寺の紹介1/3(P29)
高林 利三
その昔、菅寺のこの地にわずか七軒しかなかったころ、西の山裾の清水が湧き出る場所に慈眼院という寺があり、その寺の前の沼地に「蟹の妖怪」が住み着き村人を苦しめていた。この話を聞いた富山の海岸寺の住職がこの地を訪れ、妖怪と禅問答の末、見事この蟹を退治し、それを称え村人は慈眼院を「蟹寺」と呼ぶようになった。それがいつの間にかこの地の地名となり、以後蟹寺村と称するようになったと伝えられている。
承応四年( 一六五五) の村御印では村高は九十二石余、すべて畑地、銀納地代銀五六九匁二分七厘、慶応四年( 一八六八) の家数二八戸、一五一人すべて高持百姓であった。元禄期に円空が通り、村に仏像を残している。
時代が進むにつれ、越中と飛騨の交易が盛んとなり、これを結ぶ街道が三つあった。この三街道の内、蟹寺から分岐する中街道は重要な街道であったが、随一の難所であった宮川を「籠の渡し」で渡らなければならなかった。歌川広重の版画「籠の渡し」
で知られている。
しかし、明治に入り道路建設と宮川に板橋が架けられたことにより要路としていた「籠の渡し」は価値がなくなり、必然的に姿を消していった。