「僕は流れるって感じが好きなんだ。固定したものは全然つまらない。人生だってそうだろう?いつも流動的で、何が起こるかわからない。だから面白いんだ。」
-岡本太郎。
日々実験。日々修正。日々徘徊
私は36年間kimono屋にいました。
kimono好き、日本文化好きの方、多くの女性たちからたくさん学びました。
島国でもある日本。遠くの異国への憧れ。純粋の日本よりもむしろ異国の文化を換骨奪胎してこその日本なのかもしれません。
例えばスパゲッティ。
イタリア人こそが日本のイタリアン食を楽しむということをイタリア人男と結婚したとある日本人女性が書いていました。
ど真ん中に真空のあるドーナーツのある文化。
だから、どんどん異国の文化を取り込んでいく。
心配性すぎる日本人はだからモノづくりは天才的だけど。
近所付き合いは下手。
外国の方は、基本は、myway
他人は他人。自分は自分ですから。
パリも旅した時タバコの吸い殻だらけ。
もはや昔の憧れのパリは今何処。
だけれども、外人さんは、基本、おおらかなので、日本人と合うのです。
自分なりの絵と漫画の追求。
その中で、緻密な西洋の画家の単なる真似も嫌ですし、いわば、西洋日本の折衷のような位置がいいかなあと。。
それが日本らしいのではないか。
そう考えると、日本食のスタンス、位置と同じかとも思う。
今でもこれはそう思っています。
一枚の傑作を描くことよりも描く人の存在自体が問題であります。
五木寛之の「さらばモスクワ愚連隊」の中にその問いかけがあります。
ユダア人の女性の皮から作ったろうそくの明かりの中で、ナチスの将校が弾くピアノの音が美しく聞こえるのは罪 か ?
この答えは今なら簡単です。
私はそんなピアノの音など聞きたくもありません。
私は若い頃は極端に言えば泥棒をしても、テクニックが素晴らしいければ、結果としての作品がよければそれで良し。そう考えていた時期もありました。
art for artですね。
今は、art for lifeです。
今は69才。やはり作品は良くも悪くもその人そのもの。
絵を心から楽しむ。自分を描くことにぶつける。2600年続く「日本」を考え続ける。