ベルグソンのことも小林秀雄が最初に読んだんだよね。
純粋記憶。
プルーストの失われた時を求めてにも、そのベルグソンの純粋記憶があるって。
当然よね。
ただ本を読んだりするだけでは獲得できないもの。そりゃあそうだろう。
血と汗と涙というグループがあるけれど。そうだと思う。
プルーストの言いたかったこと、やっぱりなと思う。
普通のこと、普通の体験の中にあることを思い出すことで人は幸福になれる。・・・←まさに、今 私のテーマよこれ。
もっと深く言えば、阿頼耶識にも繋がるな。
三島由紀夫の豊饒の海の中にも、恍惚という彼の未来を旅したキーワードがある。
記憶の中をタイムマシーンに乗るようにあれこれ あちこち ここかしこに 旅ができる人は 素晴らしいと思うし、自分もそうありたい。
昨日。たまたま、読んだ、デュラスの 「北の愛人」。
あの「愛人」の映画でもあったように、デュラスは中国の男性と体験したことを小説にした。
「あの中国の男の死。
あの人の体の死。
あの人の肌。
あの人のセックス。あの人の手の死が起ころうとは想像もしていなかった。
一年の間、私はヴィロンの渡し船に乗って、メコン川を渡った時の年齢に戻っていた。」
そう、デュラスは書いている。
彼女のような才能に溢れたフランス人でも、ブッディズムのことは知らないし。
おそらく、ベルグソンも、プルーストも読んでないな。
彼女はやはり、いくら名誉地位を得て、若い愛人とプールで遊ぶような年齢になっても、無垢な少女の頃に、
何も考えずに、体験したことをふと幸福な時間だったなあ、と感じたんだと思う。
あのシーン。今でも思い出す。
男と別れて、一人船の底に降りて行き、たまたまショパンのピアノ曲が流れていることに気がつき、自分の魂のあり方に気がつくのだった。。
「星の煌めく空の下。ショパンの音楽が突然なり響いた時」とき。
「娘はまるで自分も自殺しようとしているかのように、自分も海に身を投げようとしているかのように、すっくとたった。
それから、彼女は泣いた。
あのショロンの男のことを思ったからだった。そして彼女は突然、自分があの男を愛していなかったということに確信を持てなくなった。
愛していたのだが、彼女には見えなかった愛、水が砂に吸い込まれて消えてしまうように、その愛が物語の中に吸い込まれて消えていたからだ。そして、今ようやく、彼女はその愛を見出したのだった。はるばると、海を横切るように音楽の投げかけられたこの瞬間に。
いやぁ。思い出すなあ。あの映画のラストシーン。
私もこのシーンを見て、泣いたし、ドツボにハマりました。腑に落ちるものを感じたんです。
自分の魂のあり方って、言葉では出てこなくても、音楽が引き出すことがあるんだなあ。
さらに、言えば。
ショパン。ジョルジョサンドとの関係もまた、連想する。
茂木さんがいうように、ショパンが高齢まで生き延び、たくさんのピアノ曲を作り上げ、サンドとの思い出をゆっくり噛み締めるそんな時間が来ていたら、彼もまた普通ーの意味で幸福だったろうに。
ある人曰く。
ショパンがサンドと出会わなければ、そんな時間も持てたかもしれない、と。
誠に、異性との邂逅は人生のハプニングの連続だ!!!!。