死ぬと言うことはモーツアルトが聞けなくなることだ
-アインシュタイン
ナンネル・モーツアルト 三島由紀夫が絶賛する 森鴎外の「花子」「文章読本」で、脳みその肥やしとする。
モーツアルトにはやはり素晴しい音楽家の姉がいます。
その彼女の映画。再視聴。再思考。ふくらませます。
「神童」である弟ヴォルフガングを売り込もうとしている父レオポルトに連れられ、家族でヨーロッパを旅して回っている14歳の少女ナンネルは、類い稀な音楽の才能に恵まれながらも、女であるという理由だけで、その才能を活かせずにいる。
そんなある日、ふとしたことからフランス王女ルイーズと親しくなったナンネルは、王太子ルイと出会う。ナンネルが女であることを知りながらも彼女の音楽家としての才能を認め、自分のために作曲するように頼むルイに、ナンネルは恋心を抱くようになる。
ルイのために必死に曲を書いたナンネルだったが、ナンネルのルイへの想いが叶うことはなく、それどころか酷い罵りの言葉とともに拒絶されたことから、ナンネルは2度と作曲をすることはなくなり、弟ヴォルフガングを支える存在として生きて行くことになる。
すこし、三島由紀夫のことを連想します。その典雅さ。優美。犠牲愛。
ところで。
地下で、森鴎外の「花子」をたまたま読んでいたら、最初のロダンが出てきて花子に会う所が、なにやら昔読んだ記憶があった。ロダンのデッサンは好きで、だいたい、持っている。
よく考えると、三島由紀夫が「文章読本」のなかで、森鴎外の文体を絶賛するところにこの「花子」の文体がお手本として出てくる。
聖心派の尼寺として賛美歌を歌う娘達。
彼女達が桃色の唇を開いて歌う。
この桃色の唇という言葉を生かす為にその他の文章が工夫されている。
このシーンは私は分析派でなくて連想派・妄想派なので、すぐに小磯良平のこの絵を思い起こさせてくれた。
小磯良平の言葉。←個人的にはそんなに好きではありませんが。いわゆる上手い絵の代表。学ぶ価値のある画家だと思うな。
「私はどちらかと言えば色数を少なく使うことを頭において仕事をしている。少ない色数で、じみな色調で変化が多く、強い絵が出来れば、それが一番私の好きな絵ということになる。時には5、6色で描くこともある。絵具箱の中には沢山の色をもっているが、いつも補充する色はきまって5、6色である。
例えばオムブルとか、ビオレマルスとか、黒とか、ジョンブリアンなどは補充する色である。」
彼の絵にもモデル達の唇のライトレッドが実に鮮やかに在る。
効果がまるで森鴎外のそれと同じようにも感じる。
賛美歌。
実にキリスト教のシステムは素晴らしいと感じる。
まったく宗教に興味のない若者達であっても、自分たちの結婚式は教会であげたいというのもそのひとつかもしれない。
渡辺昇一氏が書いているように、芸術はsomething great 神様 に 触れるように、描かれていると強いオーラを放つのだろう。
このシステムの日本版については今少し、考えてみよう。 ヤオロズの神。
シネマについても同じ。
たまたま、やはり、モーツァルトの姉の人生を描いた映画を見ていてそれを強く感じる。
「ナンネル・モーツァルト」・・・・・
この映画の物語は、editorial的に見れば、失恋-修道院という三島由紀夫の春の雪を連想させるエピソードも考えさせてくれるし、なによりも、女が作曲を禁じられた時代の才能ある女性の恋悲劇だ。