「僕らがいくらヒットを生んだとしても、しょせん手塚治虫にはかなわないんだよ |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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「僕らがいくらヒットを生んだとしても、しょせん手塚治虫にはかなわないんだよ。あの人は雲の上の人なんだから。誰も彼もそれを認めていたじゃない。天才というのは、どこかいびつでしょう。僕らは凡庸だから、妙にバランスがとれてしまっている。そういう性格が作品にもあらわれてしまっている。物足りない。手塚さんのようなつきつめたところがない。それは自分でもわかってる」- 石森章太郎

もしも生涯でひとつあなたの一番の書物をあげなさいと言われれば、私の場合、それは決して世界の名作、傑作、不朽の一流文学でもなくて、多感な13歳の時に読んだ、「石森章太郎のマンガ家入門 」である。  

1967年頃 小学 中学生の時には、日本のど田舎、北海道に住んでいた、私の時代は、岩見沢から札幌まで鈍行で、家族で行くのが、年に一度か二度の最高の楽しみであり、当時の丸井の食堂で「好きなものを食べろ」と父から言われて、カレーライスをほんとうに感激して美味いと食べたものである。  

目の前の風景がどんどん階が変わる度に変わって行くエレベーターやら、動く階段とも言うべきエスカレーターに乗るのが心からの驚きとともに楽しみでもあった。  自動ドアなんかはもう未来の都市にきたのだというような大げさに聞こえるかもしれないが、テレビで鉄腕アトムなどを放映している時代、私は子供心にほんとうにそう思ったのである。  

そんな家族のひとときのミニ家族旅行の中、好きな本屋が札幌丸井のなかにあり、そこで1冊の本つまりこの石ノ森章太郎のマンガ家入門 をたまたま、見つけて、買ってもらった喜びは今でもはっきりと記憶している。  それを超えた喜びはいまだにないと言っても過言ではない!

その本の中には、「龍神沼」という石森の傑作が載っており、こんな漫画をいつか描いてやろうと心のかたすみで私は密かに自分に約束していた。  

その本に描かれていたことはもう「巨大なる図書館」のように、私の前にたちはだかった。  巨大なるキャンバスの抽象画を描けるくらいでないと漫画家にはなれないとか、シナリオは勉強しないといけない、映画はたくさん見ろ、一流の文学作品に接しろ、などなど、ヒントが恐ろしい程に、まだ13歳の私を直撃した。

 いまならば漫画家の養成大学もあれば、漫画を描くようなキットもすぐに手に入る。  親だって息子が漫画家になりたいと言えば、皆拍手喝采で賛成するような時代になったが、当時は、漫画といえばもうPTAのうるさいおばさんたちが漫画なんか読んでいないで、小説だけを読みなさいと、  目をつりあげる時代。  誰も私の密やかな夢を応援してくれる人などどこにもいなかったのである。  

先生に漫画家になりたいと勇気を出して言ったら、一笑にされて、漫画家になるにしてもとにかく普通の最低の勉強だけはしなさいとなだめられ、「石森や手塚治虫の弟子になりたい」という私の夢ははかなくつぶされそうになった。

 私は当時は自分の自己主張というべきものがハッキリ言えないような軟弱な少年であり、ノーと言えないのが自分の悩みであった。  大学生になっても、胃がんで手術をしなければいけない母のためにどうしても漫画家などで貧乏生活をするような冒険などはできなかったので、就職は悩んだ。  

気がつくと、普通のサラリーマンになっていた。

せめて美術関連の仕事という最低の夢ということでキモノ関連の仕事につくわけだが、家族やともだちからも、不思議な顔をされた。親も良い顔はしなかった。

当時、キモノは今のようにファッションと世界に誇る日本の美との認識がまだまだ薄く、呉服屋というイメージで、ダサイ職業のひとつでもあったから。

就職後、そこには厳しいノルマと社会人としての生活が待っていた。 しかし、キモノ美人に囲まれ、京都などの問屋にもしょっちゅう出張があり、「美に」包まれていたから、幸福でもあった。結果として、良き、選択であったとおもう。当時、読み込んでいた、三島由紀夫氏の「時代に反動的に生きなさい」という言葉を信じて良かったとつくづく思う。 

はやいもので、その生活も何冊もの本が書けるほどの波瀾万丈の33年間であったが、後悔はしないにしても自分の心からやりたいことは絵や漫画を描く事であったから、日々、少しの時間を見つけては、この石森章太郎氏のアドバイスを胸にここまでやってきたわけである。  

本は、11回の引っ越しにもかかわらず、古本屋などでこつこつ集めた本を捨てずに、そのたびに、重たいダンボールに詰め込んで、大切に保管移動した。最後に、故郷に戻って来た時には、三万冊になっていた。約、ダンボールで、400箱くらいだっただろうか。

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石森章太郎「漫画家入門」。この本がなかったら今の私はいないと言いきってもいいくらいの本なのだ。

 そんなわけで、人から見たら「なんだこんな漫画の描き方の本か」と言われそうだが、彼の助言は会社勤めをしていた時にも役にたったし、なによりも「普通の人間としてしっかり成長する事こそが、また良き作品のために必須の一歩である」ということも学んだような気もする。  

 しかしながら、彼の代表作でもある「ジュン」などは、いまだに新鮮味を感じることができるし、あれだけの勉強をした漫画家は他にそういるものではない。  晩年の作品よりは、初期の作品群に、私も好きな作品が多いけれども、(「きりとばらとほしと」「昨夜はもうこないだが明日もまた」「赤いトナカイ」「ミュータントサブ」などなど)、やはり晩年の「漫画日本史」などのデッサンを見たがすごすぎて頭がさがる。  

フランスのようにすでに漫画が芸術アートの仲間入りをしている国ほどでもないが、今やっと日本漫画の地位は少しは向上しているようである。日本のアニメと漫画の人気はもはや、世界的である。ドラゴンボールのなかにでてくる、「ライスボール」を一度食べてみたいと、世界から日本にたくさんの人がやってくる時代なんか、あの私が13歳の時に、だれが予想しただろうか?

 今、頑張っている漫画家も、皆この本の影響をすくなからず受けている筈。 世界的な画家アーティストの村上隆氏の本にも、この「漫画家入門」のことが紹介されていて、彼もまた、影響されたのだと、納得。嬉しかった。

トキワ荘のメンバーの「好きこそものの上手なれ」という本質を受け継いでいる若手の漫画家が今、何人いるか私は知らないが、67歳になった今こそ、気持ちだけでも童心にもどり、初心を忘れず、絵と漫画を書き続けて行きたいと考えている。  

そのためにこそ、文学があり、映画があり、漫画があり、音楽があるのだ。そのことを教えてくれた恩師とも言える本である。彼がいなければ、小説など読んでいなかっただろう。

遠い、遠い、遠回りの人生だったが、やっと、今、私は、自分の好きなことをやる道のスタートに、幸運にも、立つことができた。

寝る前には、かならず、一冊の本をベッドに持ち込んで、読むほどの、活字中毒者、それが石森氏だったから、私も彼の真似をしてきた。

今67歳になり、好きなことをできる自分が嬉しい。母は4年前になくなり、父の介護をしながらではあるけれども、それも含めてほんとうに至福だと思う。おてんとうさまに、感謝!!!!

これから10年、もしも、神様が時間をくだされば、時間はまだまだ十分にある。 いや、 5年でもいい。  

なんとか死ぬその瞬間に、子供心に思った夢のひとかけらでも実現できたならば、と思う今日このごろである。  ・・・・

石森章太郎氏は60歳くらいで、亡くなってしまった。その年齢を超えてしまった私は心をこめて、彼に言おう。「ほんとうに素晴しい本、ありがとうございました。努力と忍耐の日々、おつかれさまでした。ゆっくりお休みください」と。