20年前のこと。
龍安寺で二時間ほどぼーと瞑想をしていた。昨日の暑い昼のこと、横には外国人がまずすわりデジカメをぱちり、私と同じくぼーと瞑想していたが、その姿はイエスキリストが瞑想しているような雰囲気だった。顔の形が瞑想にはあまり似合わないような気もする。
キリスト圏の人々が老若男女を問わず龍安寺に来てその美と神秘を楽しむことはいいことだし、日本人として嬉しい。しかしながらその日本人もその庭ができてから数百年、友達と来ていた高校生らしきふたり組、ただぺちゃくちゃの雑談を大声でしている。
歴史も何も彼女達には、意味がないのかな。
何も深刻な顔で瞑想しなさいとは言わないが、なんでこの京都まで来てせっかく世界遺産の庭を目の前にしてその美しさにホレボレとしないのか。集中する力がないサルのようだ。背骨のくにゃくにゃした子供のようだ。
会話の内容もすぐ横だから聞こえてきたが友人の人間関係のことらしい。と思えば、中年の男性がもっともらしい顔つきでこの庭の由来を説明しはじめる。おかげでいろいろな知識は得た。だが、だからといって、この庭の魅力はそれで解明されたわけではないのだ。
ただ、見るだけ。それをじっとやってきた。二時間ほど私は黙って見てきた。
小林秀雄がただ黙って掛け軸の雪舟を見るように、龍村平蔵が正倉院の宝を六時間もじっと見ていたように。
ただ、見るだけ。
それが私にとっての「足るを知る」だということなのだから。
この時の至高体験は私だけのものだ。