「グラントリノ」「山の人生」柳田国男 「転校生フリオ」「岡本太郎芸術と人生」 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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生きてると、怒らせちゃいけない相手と出くわすことがたまにあると知ってたか? それが俺だ」(「グラン・トリノ」   クリント・イーストウッド





「グラン・トリノ」


◎資料
『ミリオンダラー・ベイビー』以来、4年ぶりにクリント・イーストウッドが監督・主演を務めた人間ドラマ。朝鮮戦争従軍経験を持つ気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流を通して、自身の偏見に直面し葛藤(かっとう)する姿を描く。イーストウッド演じる主人公と友情を育む少年タオにふんしたビー・ヴァン、彼の姉役のアニー・ハーなどほとんど無名の役者を起用。アメリカに暮らす少数民族を温かなまなざしで見つめた物語が胸を打つ。





クリント・イーストウッドは父クリントン[1]・イーストウッド・シニアと母モーガン・イーストウッドの間に生まれる。スコットランド、アイルランド、ドイツ、イングランドの4か国の血をひいている。家系はメイフラワー号の乗員で港町プリマスを統治したウィリアム・ブラッドフォードを祖とする名家であるが、幼い頃の生活は世界恐慌の煽りを受け苦しかった。
オークランド・テクニカル・ハイスクール卒業後、朝鮮戦争のさなかである1951年に陸軍に召集され入隊。2年後の1953年に除隊後、サウス・カリフォルニアに移住。アルバイトの傍らロサンゼルス・シティ・カレッジの演劇コースを専攻する。1950年代初めにユニバーサル映画と契約を結ぶが、当初は『半魚人の逆襲』『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』といったB級映画の端役しか与えられないという、不遇の時代を過ごした。



 映画を見て、すぐに、記録すること。
 これも大事。特に私のような映画狂には。

 それに、私は、健忘症。・・・・・ほんとうに忘れっぽい!!!!
だから、記録する。
記憶にたよらず、記録をつけるとは、思うけれども、なかなかそれができない。でも、続けている。




 この映画はすでに、何回も見ている。最後に、再度見てから一ヶ月。
 良い意味で、生な感動は醒めている。


 敬愛する小林秀雄氏は、「生なましい現実体験は、あまりにもなまなましいので、言葉になりづらい。書く行為によって、思い出すことによって、それはより現実の中で生きてくる」と、(私の勝手な解釈ですが・・・)


 したがって、些細なところは忘れた方が良いのかもしれない。
 一ヶ月たっても、記録しておきたいところ、感じたところが、ツボなのかもしれません。
 それに、何回も見ると、新しい発見が次々とあります。


 男と女の良くも悪くも、違いを感じた映画。

 そして、バタ臭いけれども、アメリカという国を一身に背負って立つクリント・イーストウッドの男の色気かな。


 こうやって書きながら、あの映画の細かなシーンが驚く程正確に記憶にパタパタと映写機で回すように脳裏に浮かぶ。
 変な言い方ですが、女性には理解できない映画だと思う。
 女性に惚れられる男の映画だろう。
 何も、異性を理解する必要はないでしょう。惚れることが一番大切。


 今の時代。
 効率効率、合理化、無駄無理ムラを省いて・・・・・これらの大合唱。


 そしてアメリカという国、ユダア人の支える国の、ある意味合理主義。
 三島由紀夫氏は、フロイトニズムでさへ、合理主義の延長かもしれないと書きました。






 自分にとってマイナスな道をとにかく選べ。選べば、圧倒的な生命力がわき上がってくると、岡本太郎氏も言う。

 道がふたつあって、自分にとって、得な道と損な道。
 迷わず、損な方を選べと。・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







  不合理ゆえに我信ず。


  小林秀雄氏は、頭でっかちの似非インテリを嫌う。
  へらへら笑って、大真面目に何にも信じようとしない、できないインテリ達。
 「すべてを疑え!!
正しくない連中は殺戮せよ!!! 」  ああなんたる気違いたちか!!



  三島由紀夫氏の豊饒の海を読んでいると、圧倒的な神秘主義への傾倒に気がつく。
  もう誰も彼を止めることはできない。

 

 






  彼の美意識です。
  とにかく、ヘビースモーカーであることを止めない。
  ガンで死ぬことを嫌っていましたね。
  きっと死に方をいつも考えている人でした。・・・・・・・






   その小林秀雄氏も、森の中で、山の中で、歩いていて自然の本質に触れて、どうにもこうにもしょうがないくらいの「何か」を感じている文章を読んだことがある。

   柳田國男氏の民話が大好きだった小林秀雄氏。遠野物語・山の人生 です。

   この子供の首を切り落とした話は実話です。

 11話までありますが、おそらく、いつかなくなるかもしれません。

 

 

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柳田国男の取材した日本の物語。
生活が普通に日々地道に行われていく山人たちの生活があり、自然の中で、彼らは生きている。
そこにはわれわれ、現代人が日々味わっているようなフランス料理もなくゲームもなくテレビもなく
洗濯機もラジオもiPodももちろんないのであるが、家族3人、男親とふたりの幼い子供達がいた。

日々お父さんは炭を売って生活をたてている。
しかしことしの秋はなにやら炭がまったく売れない。
大事なのは想像することである。彼らの沈黙と静寂のまじめな生活を。
そして食えなくなった悲惨な生活がただただ過ぎていく。
そんなある日、秋の夕日が綺麗なころに、子供達が何やら一生懸命、仕事をしているようだ。
斧を研いでいるらしい。
何も考えずただひたむきに斧を研いでいる。

そしておとうにこう言う。「おとうこれで切ってくれ」
まあこんな言葉で言ったかどうかはもう私も忘れたし、小林も具体的には言っていないのだが、そんな風に思えるのだ。
夕日がとにかく美しくおとうさんは頭がくらくらっとして気がついたら斧をふりおとしていたと言うのだ。

これは実話である。

小林秀雄は遠野物語に出てくるこの有名な話は実は柳田国男がはっきり覚えてはいないのだが、公務員をしていて
そのような各地の事件の担当でいろいろな事件記録を読む仕事を最初していた、と明言している。

昨今の斧で家族を惨殺したという事件となんたる違いか。
小林秀雄はこのような物語が人の心を打つというのは、人の何千年何億年もの暮らしの中で、このように自己犠牲的な
ことが各地で行われてきたにちがいないと語る。
そのようなDNAを人はもしも持っていなければ人類は生きてこれずに滅んでいたのではないか。そこまで彼は語る。



   それと、玉を見てしまう男の子の話。
柳田氏が子供の頃に、近所に確か、祠があって、そこに神様のお守りかなにかが入っていると親に言われて、ついに、その祠をあけて見てしまうんですよね。記憶が曖昧ですが。

   すると、そこには玉が入っていたというんですね。

   玉がそこにあるだけだったと。

   そこで、うぐいすか、何かの鳥が鳴いたというんです。
 
   その時に柳田氏ははっと我にかえって空を見上げると、昼間だと言うのに、満天の星が見えたと言うんです。

   そして、もしも、そこで鳥が鳴かなければ、私は発狂していたであろうと柳田氏は書いていますね。


    科学で解明できないことは迷信だとか、それはたんなる昔の人の言い伝えだとか、言います。
  でも、私はこのような迷信や、言い伝えや、神話や、民話や、そんなもののほうに、自分が近くありたいという気持ちを捨てがたいのですね。

    
  不思議なことに、クリント・イーストウッドのこの映画を見ていて、上記のことなどが、どんどん連想され、わくわくしてきたのでした。

   
  サムライ!

そうか、これは、合理主義の大国アメリカにたったひとりで抵抗している彼の、サムライ映画かもしれない・・・・・

   そんなアホのようなことも連想していたのです。


   ベトナム戦争を経験して、殺戮などの地獄・修羅から魂の傷をどうやっても、癒すことのできない孤独な父親。


   彼の孤独の魂を癒すことができたのはたまたまの隣人。
 
    クリント・イーストウッドの心は、誰にも関係したくもなくて、人間関係のわずらわしさからのがれようとして、妻の死のあとは鬱のようになっていた。
    老年の彼に、若い頃の自分の犯した罪が、悪夢のように襲いかかる。


    しかしながら。


   人は、ひとりでは生きては行けない。
   隣人のあるひとりのアジアの少女を通じて、その弟を通じて、彼の孤独の魂は少しずつ、よみがえってくる。


   そして、その彼らをなぶりものにした者達へは、彼は、徹底した復讐を誓う。・・・


    
キリスト??

   胸から大好きだったタバコの火をつけようとしてジッポを出す行為のトリック。
   そこに彼は解決策を見つける。
   映画といえば映画なのかもしれませんが、ここが途方もなく考えさせられる。



   100000冊の本をただ読んだという。
   100000曲の音楽を聞いたという。

  はたして、それが偉いことなのでしょうか?

    そして、人はただ人生の大切な時間を、ひたすら頭の中を、多読と多聴で、忙しくすることだけにあけくれる。・・・・・・・・・・




    映画を見たあとに、一ヶ月間も、何かをもらったような、考えるヒントをくれる不思議な魅力に満ちた映画。

そんな映画は、めったに、ぶちあたるものじゃあないですね。
    そんな素晴らしい映画は、考えさせてくれるんです。・・とことん。
   
    
    勝手な解釈の私の映画評の、勝手な記事でした。


    シンクロシニティで、この「復讐」についてのそれ、「96時間」と「ニキータ」について、こんど、ヒントが生まれていますので、また書きます。

 

 

 

 



 つぎにロック。







今は、もうロックはさほど、聞かないけれど、たまに聞くと、すごく懐かしい。
 やはり、若い頃は、激しいもの、過激なもの、カッコいいものに、惹かれて行く。
 それは悪いことではないけれども、年齢とともに、好みは変化していくと思う。

あのウッドストックの映画は、素晴しかった。

ひとりで、札幌まで映画を見に行った。感動した。今は、年令を経て、あの祭りはなんだったかを、冷静に考えるようになったし、ヒッピーやら、鈴木大拙の影響やら、

ジョブスやら、詩人達のインスピレシーョンやら、禅やら、考えれることができるようになった。・・・・・・・・・・・・

 

 

  ただ、あれは、何かの変革への音楽をつうじての意志だったのだった。

 

 

 

この映画

 

 

 


 


Woodstock - Ten Years After - I'm Going Home




 若い頃の感動した、たとえば、このアルヴィン・リーのロックにしても、ウッドストックのメンバーにしても、ほとんどアメリカ生まれのサウンドである。(ミックはイギリス)

 そこに、私の時代はまだ、フランスやらイタリアやらドイツやら、の例えば、二ノ・ロータなどの、古典的なイージーリスニング的な美しいサウンドがプラスされる。


 ウッドストックでも、本質的なところで議論されたのは、呼吸法の訓練などで、変成意識が生み出せるかということだろう。
 それができない若者は、皆、ドラッグをやっていたと思う。

 思えば、不思議な時代。

 日本がアメリカの妾とか、笑われた時代かもしれない。


 伝統的な音楽の排除。
 シュールとダダの台頭。
 破壊と否定。


 当時のロック・スターや、jazzmenは、皆死んでしまった。

 聞いたところ、あらゆる職業で一番短命なのは、詩人と、ロック・ミュージシャンらしい。


 一番長生きなのは、坊さん。





 私は、これらの曲を聞いたり、当時の名画を見たりするのは、その時の自分の心の位置をたしかめたり、ときめいたりした空気感を味わいたいだからだと、思っている。



  思想的な共鳴ということを考えると、まったく今とは違う。


  シュールもダダも、満足できない。
  今は、ゲーテのような、小林秀雄氏のような、巨大な考え方に触れていたい。





  (そう考えると、若い頃から読んでいた、三島由紀夫氏・小林秀雄氏・ドイツ浪漫派などは、
  自分の血肉に少しはなっているのかもしれない。)

 とくに、この「當麻」は素晴しい名文である。

 

 

 

 

 

 





  そして、深く共鳴するのは、日本と西洋の古典である。
  300年の歴史しか持っていないアメリカと違い、時間のヤスリで
  磨かれた古典・伝統というものは、やはり、重くて、深いのだと思う。


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   しかしながら。
  さきほど書いたように。
  当時の私は、このウッドストックをわざわざ、札幌までひとりで見に行き、感動して、それからはずっとロック派になった。
  瞬間の中の永劫という好きな言葉とこの時、ロックは重なり合ったのだった。


  今。還暦一歩手前で、瞬間の中の永劫という言葉が、バロックの音楽と重なり合うように。

 

 



何歳のころか。
 「惑星ソラリス」を見て、心から感銘した。
 そして、このシーン。
 バッハは高校生の頃から好きだったが、さらに、神秘も含めて、好きになった。
 ・・・・タルコフスキーという天才監督のおかげでしょうか。


 誰しもが、心のなかの悪魔を「惑星ソラリス」の力で、呼び起こされているというのに、
 彼だけは、昔愛した自分の妻を、潜在意識のなかから、呼び出してしまう。
 その愛と葛藤・・・・・・
 SFの名作古典。
 私が強烈に、影響を受けたSF映画、「ブレードランナー」「2001年宇宙の旅」「コンタクト」そして、この「惑星ソラリス」。


 

 

 




 タルコフスキーの映画。
 自分はどこからやってきてどこへいくのか・・・・・存在に対する神秘。
 神秘感を深く感じさせてくれます。
 個人的な感想ですが・・・・・・。

 

 



 このソラリスは、あまりにも、美しいので、たしか、アメリカで再度制作されています。
 監督は、



◎資料

2002年にアメリカの映画監督スティーブン・ソダーバーグによりリメイクされた。製作者側によるとこの作品はタルコフスキーの作品のリメイクではなく、あくまでも原作の小説のソダーバーグによる映画化とのことである。 とは言っても、レムの小説よりはタルコフスキーの映画からの影響と思われる要素も多く見られる。実際、DVDの特典に収録されているソダーバーグの脚本には「スタニスワフ・レムの小説および、アンドレイ・タルコフスキーとフリードリッヒ・ゴレンシュタインの脚本に基づく」と書かれている。映画本編のクレジットではレムだけが記載されている。



 存在の神秘。




 この薬は効くと、信頼する人から言われて飲むと、たとえその薬がたんなるメリケン粉であっても、効果がでると言う。
 世界は自分の脳がつくりだしている。
 信念こそがその源だとも思う。




 dragonflyの尼さんが言う、信じたことでこの世はつくられている。

 

 

 

 





2002年のアメリカ映画『コーリング』の原題。ドラゴンフライ(dragonfly)は、英語でトンボのこと。


 たしかに、この机の上の「ボールペン一本」にしても、この記事を書いている「パソコン」にしても、
 昼に食した「豆カレー」にして、この狂ったような暑い夏のせいで飲む冷たい水のはいった「コップ」も、一度は、人の頭のなかで、「考えられた」コトが、モノに、変容したのである。

 この地球上のすべての人工物は、一度、人の頭のなかで考えられたからこそ、今、ここに「在る」。
 これは不思議なことだと思う。

 思うことは実現する。そのことだとも思う。

 聖書のなかの、信じるものは救われるという言葉の意味をみな取り違えている。
 それは、キリスト教団体に入れば、宗教団体に入れば、気持ちが楽になって、魂が救われるという意味だけではないのだと思う。



  だれしも、一次元高いところに、住む人の言葉を誤解する。

  言葉を分析するのではなく、「感じる」ことをしなくてはいけないと思う。


 かつて、私はこんな記事を書きました。


三島由紀夫の「文章読本」を読んでいて、おやっと惹かれ、そしてこんなことを彼が書いているのだなあという記述がありました。


 彼一流のユーモアと皮肉で、「僕の登場人物は本など読まない」とか「本をわざわざ買って読んでも不安を買わされるみたいなものだ」とか言うような、文を書く人なので、皆だまされちゃうんですよね。
 素直で純朴な男が好きなのに、そのような文章は書かないというか、不思議ですね。

 三島さん曰く。

 「チボーデは、小説の読者を2種類に分けております。ひとつは、レクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他のひとつはリズールであり、「精読者」と訳されます。チボーデによれば、「小説のレクトゥールとは、小説と言えば何でも手当たり次第に読み、「趣味」という言葉の中に内包される内的・外的のいかなる要素によっても導かれない人」という定義をされます。新聞小説の読者の大半はこのレクトゥールであります。一方、リズールとは、「その人のために小説世界が実在するその人」であり、また「文学というものが仮の娯楽としてではなく本質的な目的として実在する世界の住人」であります。
 リズールは食通や狩猟家や、その他の教養によって得られた趣味人の最高に位し、「いわば小説の生活者」と言われるべきものであって、ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きて行くほど、小説を深く味わう読者のことであります。実はこの「文章読本」を、今まで、レクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思って始めるのであります。」


そして彼はここまで書いております。

 私はなるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。
 

 

 

 

 




 三島由紀夫。
 彼の葬式で、武田氏は、こう祭壇に向かって呟く。
「あなたの人生は刻苦勉励の人生でした。御疲れ様でした」






 そういうわけで。

 私は、リズールでありたいと願います。
 というよりも、私の頭のなかの思い出の半分が、実体験の思い出だとすると、もう半分くらいが、映画・音楽・文学・マンガ・絵画・の作者・主人公・そして作品そのものです。

 このふたつが拮抗しています。

 もう、この場合、どちらがバーチャルで、どちらが、リアルかわからないくらいに。



 それで良いと思っています。




 若き頃に見た、アラン・ドロンのシネマの数々を夢見、白い恋人たちでかなでられる人類の華麗なる肉体美と、精神の緊張の闘いに酔いしれ、死刑台のエレベーターに登場するジャンヌ・モローの魅惑を感じ、淀川さんも絶賛した、髪結いの亭主の映像美に、覚醒される時間と空間。


 それで良いと、思っています。
 

  








白い恋人たち。

 

 





死刑台のエレベーター 


髪結いの亭主








つぎに。
「コクーン」という映画があります。
SF映画の中でも、忘れられない名作です。個人的にフェバリット。

この映画のことをふと思い出したのが、「フリオ」という諸星大二郎の作品。


◎資料
主に古史古伝に題材をとり、異形の存在によって日常の価値観や世界観を転倒させるような作品を多数発表している。また日常の不安を形にしたような寓意的な作品も得意とする。作品にはクトゥルー神話の間接的影響も随所に見受けられる。
重い読後感を残す伝奇作品を描く一方で、『ど次元世界物語』など、軽めの不条理めいたユーモア作品もデビュー当初より発表している[注 1]。また近作にはグロテスクさとユーモアが同居した『栞と紙魚子』シリーズという少女漫画作品もある。
SF・伝奇漫画家の星野之宣と親交がある。
経歴[編集]
都立江北高校卒業後、東京都電気研究所で3年間公務員を務めたのち、1970年に「硬貨を入れてからボタンを押してください」で漫画雑誌『COM』の読者投稿コーナー「ぐら・こん」で佳作5席。同年COM12月号にて「ぐら・こん」入選作の「ジュン子・恐喝」でデビューを果たす。その後、『COM』、『漫画アクション』、『パピヨン』誌などに作品を発表。
1974年に初めて少年ものとして描いた『生物都市』で第7回手塚賞に応募して入選、同年から『週刊少年ジャンプ』で「妖怪ハンター」[注 2]の連載を始め、本格的な作家活動に入る。その後、同誌で「暗黒神話」、「孔子暗黒伝」を連載。
1979年から『週刊少年チャンピオン増刊』『月刊少年チャンピオン』などでマッドメン・シリーズを不定期に掲載。
1983年から『月刊スーパーアクション』誌で「西遊妖猿伝」を連載開始。それまで知る人ぞ知る作家に留まっていたが、この作品で一般的な認知を得るようになる。2000年には同作で第4回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。
2004年、劇画と同じ不条理の世界を描いた初の小説集『キョウコのキョウは恐怖の恐』を刊行。それまでに発表してきた短編小説が加筆・修正のうえ収録されている。
2007年、2冊目の小説集『蜘蛛の糸は必ず切れる』を発表。









「コクーン」









人間の死について考えさせてくれます。
手塚治虫氏の傑作「火の鳥」でも、書かれていましたが、人は永遠の命を望むものの、自分の友達や家族が死んでしまうのには、耐えられないのです。


・・・・・・・・






このテーマはまったく違いますが、・・・・・・「フリオ」





  心のサプリ    





 フリオという転校生、すぐにまた転向してしまう・・。

 洞窟につれていってくれてビニ本を見せてくれたり、あるはずのない路地の奥の自動販売機のことを話したり、ガキ大将の生意気な男の子を鉄棒から念力で落としてしまう。  心のサプリ    

 それでも、誰もそのことを知らないし、まったく気がついてもいない。
 証拠もないし、ボクもそのことは感づいていても、ほんとうかどうかはわからない。


  宇宙人である父親のことを詳しく話してくれるが、やはりいつものようにフリオ君のことはよくわからない。それだけ不思議な友達なのだ。

  土手の上でUFOが迎えにきてくれると聞いて、そこに向かうのだが・・・・・

  やはり、ボクにはその横道を抜けその路地を右にまがることはできなかった。・・・・

  このような不条理ものというのか、奇妙な味のマンガというのか、好きですね。

  まだ諸星もこの頃は、マンガの線が丁寧で、好感も持てますね。今がダメとはいいませんが、やはり初期の作品の方が初々しい新鮮さに満ちています。柳田國男の本もかなり読んでいると思われるふしがありますね。



  心のサプリ    




 NARUTOや、二億部売ったというonepieceワンピースだけがマンガではないでしょう。ひとつの表現方法として、マンガの世界はすでに確立されていますね。というよりも今は迷路に入っているのかも。昔みたいにマンガが好きで好きで書いている人は少なくなりました。線の変化みているとわかります。だんだん、アシスタント任せになって、線もくずれていくんです。




  人は処女作を超えられないとか。

  20代の作品をなぞりながら、自分を真似してる人は漫画家にもたくさんいますし、それは作家や画家さんでも同じでしょう。
   技術が上達しても失うものも比例してありますから。
   
  ゆえに、変わり続けることしか新鮮に生きる方法はなくなってくるんです。






  心のサプリ    













ふと。金原ひとみ。











  心のサプリ    

 小説の方の、金原ひとみは、確かあの当時は村上龍が審査員ということで、芥川賞をとりましたネ。
文芸春秋でも読みましたが、なかなかの力作。感性が半端ではありません。
まあこういう本を読む時には、イギリスにおられるオスカー・ワイルド氏の言ではありませんが、あらゆる書物は道徳的に書かれているかどうかであって、道徳的な、あるいは反道徳的な書物はないということでしょう。
 サドの本だって某作家から言わせると、サドはモラリストだと言いますし、視点を変えれば本の色彩はカメレオンのようにころころ変わって行くものです。その本の真価というものは時間がたたないとわからないものかもしれません。

 個人的に、私は金原ひとみが好きだというわけではありません。
ただ、この漫画家渡辺ペコ嬢の線が好きであり、魅力的だと思う。
このふたりの奏でるデュエットとも言える作品に惹かれるのであり、若者の感性というものはいつの時代でも、良くも悪くも、最初はへんてこりんなモノだとも思います。
ただ、この作品の刺青のシーン。つまりタトゥーです。
 敬愛する谷崎の「刺青」のことを考えていました。

  心のサプリ    

  心のサプリ    

 誰しもが知っているように、その昔日本人は独特の美意識によって、中国から明確な「好き嫌い」で入れるものと入れないものを峻別してきましたが、この「刺青」は入れています。そして、「纏足」は入れていませんね。

 いつしか、この刺青は、「その世界」の人のモノとしてのイメージがついてしまいましたので、私くらいの世代の人間は皆、あまりプラスのイメージを持っている人はいないでしょう。

 小さな頃。
 まだ家庭に風呂などありませんでしたから、我が家では、遠くまで家族で歩きでてくてく、公衆浴場まで行っておりました。
 独特の汗や畳の匂い。今でもはっきり覚えています。(まあこれは今でも公衆浴場に行けば同じ匂いがありますが・・笑い)
 力道山のテレビを皆が見ていたり、大鵬の相撲を皆が拍手をしながら見ていました。

 そこにいました。
 背中に小さな彫り物をしている男性。
 小さな私なりにじろじろ隠れ見ていましたが、男性はもうかなりの老人でしたが、彫り物のその青の色がてかてか光って、不気味だったことを覚えています。^^

 谷崎潤一郎氏の「刺青=しせい」は、無垢な16歳の娘が、そのまれに見る白い足をもっていたために、彫り物絵師の目にとまり、残酷絵画を見せられその彼女の奥底の性癖を見抜かれます。そして、次第に、絵師の心に惹かれた娘は背中に女郎蜘蛛の刺青をすることになるんですネ。
 そして、世界の男はお前の肥やしなのだという言葉が事実である実感を体の奧に感じながら娘は、苦痛に耐えて背中に蜘蛛の刺青を完成させます。

 ほんとの5 6ベージの短篇ですが、まさに、文学の本質は「夜」、「エロティシズム」、「生命や魂の奥の奥の井戸まで達するような冒険」なんだというのがわかる大傑作です。

 金原ひとみと渡辺ペコのデュエットとは比較しようもない傑作ですが、ただ、刺青のことをちょいと調べてみれば世界のどの国でも若い人は皆やっています。
 その意味では、この刺青、もう谷崎の小説の絵師のような天才彫り物師はいないと思いますが、「夜のエロティシズム」に感化され、魂に色彩をつけたいという人はかなりいるんだと思いますね。

 誰が眉をひそめたって、若者なんかには通用しません。

 






道義心と臆病は実は、同じ事だ。

                   
 道徳は、われわれが個人的に好かない人たちに対してとる態度だ。



人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは魅力があるか、さもなければ退屈か、そのいずれかだから。





 上記、3つの格言。すべて、オスカー・ワイルド

 

 

 

「ドリアングレイの肖像」が一番すきですが、彼のドラマもあります。




 彼は最後の最後に、刑務所に入って、懺悔録を書きます。
 有名です。









鍋ですが。

  心のサプリ    肉に骨がそのままついたもの、ゼラチン質と言うのでしょうか、独特の旨味ありますね。スペアリブともいうのでしょうか。
 豚足や、マグロの目の部分なんか、それに皆が捨ててしまうアラなんかも、それはそれは美味でございます。

 かつての江戸時代、あるいはスペインでは、マグロのトロの部分は捨ててしまったものが、いまや、一番高くなっているのは、だんだん人の舌が肥えてくる、つまり進化してくるということでしょぅか。


 進化?

いや、エスカレートしてくるのでしょう。


このポネ鍋。

 骨のまわりの肉のことをアイヌの人達が「ポネ」と言っていたらしい。目を細めてもぐもぐ食べながら、ポネポネ言いながら食べていたのでしょうか?

 

  心のサプリ    






「食べること」を考えると、いつも思い出す映画は、この映画です。

◎幸福のレシピ

 

 




『幸せのレシピ』(原題: No Reservations)は、2007年のアメリカ映画である。スコット・ヒックス監督作品。2001年のドイツ映画『マーサの幸せレシピ』のリメイク作品。

 以前ブログにもアップした、ユーガータメールと同じく、良き作品は、リメイクが多いですね。
 俳優とディテールのみ変えて、物語は同じで、十分に楽しめます。さらなる飛翔も。




 個人的で、勝手な解釈ですが、アメリカ合理主義に疲れた人間達が、ある意味おおらかで、神秘性も大事にするイタリア的な場所や人間に次第に感化され、癒されていく。


 このテーマは私にとって大変興味深く、いつも考えています。
 そして、何回もブログに記事を書いています。


 


知らぬ人には無愛想、知る人には愛情いっぱい。これが日本人には極端すぎる。
・・・・・・・・・・・・・・・淀川長治





                FIN