うーん   渋い   「学問の さびしさに堪え 炭をつぐ 」 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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  俳句が芸術ではないという議論が、昔あったそうです。桑原武雄の第二芸術論です。

 でも、これは、個人的に私は安吾のこの言葉で、納得しています。20年前読んだ安吾の言葉ですが・・

  「近ごろ青年諸君からよく質問をうけることは俳句や短歌は芸術ですかといふことだ。私は桑原武夫氏の「第二芸術論」を読んでゐないから、俳句や短歌が第二芸術だといふ意味、第二芸術とは何のことやら、一向に見当がつかない。第一芸術、第二芸術、あたりまへの考へ方から、見当のつきかねる分類で、一流の作品とか二流の芸術品とかいふ出来栄えの上のことなら分るが、芸術に第一とか第二とかいふ、便利な、いかにも有りさうな言葉のやうだが、実際そんな分類のなりたつわけが分らない言葉のやうに思はれる。
 むろん、俳句も短歌も芸術だ。きまつてるぢやないか。芭蕉の作品は芸術だ。蕪村の作品も芸術だ。啄木も人麿も芸術だ。第一も第二もありやせぬ。
 俳句も短歌も詩なのである。詩の一つの形式なのである。外国にも、バラッドもあればソネットもある。二行詩も三行詩も十二行詩もある。主知派だの抒情派だのと窮屈なことは言ふに及ばぬ。私小説もフィクションも、何でもいゝではないか。私は私小説しか書かない私小説作家だの、私は抒情を排す主知的詩人だのと、人間はそんな狭いものではなく、知性感性、私情に就ても語りたければ物語も嘘もつきたい、人間同様、芸術は元々量見の狭いものではない。何々主義などゝいふものによつて限定さるべき性質のものではないのである。
 俳句も短歌も私小説も芸術の一形式なのである。たゞ、俳句の極意書や短歌の奥儀秘伝書に通じてゐるが、詩の本質を解さず、本当の詩魂をもたない俳人歌人の名人達人諸先生が、俳人であり歌人であつても、詩人でない、芸術家でないといふだけの話なのである。」

 

  さすが。安吾。

 

 今や、俳句は世界でも珍しい芸術スタイルとして認められています。世界中の人たちが俳句を愛し、好きなように歌っています。素晴らしいことです。

 

  まず。季語が素晴らしい。 四季があるからこその季語。日本の美。日本語の美。観察力が試される日々の地道な工夫。

  私もでかい、歳時記をペラペラするのが、すごく楽しいです。

 

  年末の気分を描いた、山口誓子の、好きな俳句です。

 

 この場合、「学問」は「その人の好きなこと」に、置き換えても良いのでしょうか ?

        もちろん学問。

     好きなことや趣味・に没頭すること。

     私の場合は絵や漫画やサックスです。・・

     要は、何か好きなことに没頭することを「学問」と例えても良いですね。

 

 

 「寂しい」は、「自分と向き合うこと」がやはり人生で一番大切なことだからですね。

 

 「火鉢」は、今なら、灯油ストーブに、灯油を入れ替えることでしょうかね。

 

 

 北海道岩見沢市。雪、少ないです。でも、灯油がないと、かなり冷え込んでいます。本を読む指もかじかみます。

 また、今流行りの、パソコンで本を読んだり、kindleで読むのも、また21世紀らしくて、両方好きです。

 

  あの爆笑問題が、小林秀雄を読んでいるのがおかしい、というか、すごい。私も彼の全集はほぼ完読しました。

  「考える」と言うことは彼から学びました。「考えるヒント」はその中でも、普通の人でも手軽に読める名著ですね。

 

 

  小林秀雄は言い切ります。

 

 この世で一番「学問」を現実的にやって、わかっているのは、母親だ、と。(今は子供を見るどころか、

スマホを見ている母が多いし、例外が多いですが、父親も同じです。)

 

 つまり、毎日、毎日、子供を観察しているのは、母親だと。もちろんもそれは愛情がモチベーションになっているわけですが。

 

 だから、子供の少しの表情や、仕草の違いで、何かを察知できるわけですね。

 

 これこそ、「学問」だ、と小林秀雄は言います。

 

 この場合の「学問」とは、上の、山口誓子の俳句の中の
「学問」とは少し違うような感じもしますが、よくよく考えると、子供を観察し、面倒を愛情を持って見て、料理も作るのに、子供はどんどん、大きくなって行きます。

 

 それは、ある意味、反抗期の意味もありますし、いくら観察面倒教育しても、子供は生きていますから、言うことを全部聞くわけでもありません。

 

 その意味では、「学問の さびしさに堪え 炭をつぐ 」と言う言葉は、深いなあと思います。

 

 今で言えば、子供をずっと育ててきたのに、子供は巣立ってしまい、心の中には風が吹いているような気がする。また、夢中になるものを探す必要があるのかもしれません、それは少し寂しい。そして、それに堪えながら、新年が近いこの日々の中、灯油を入れるのですね。

 

 時代は変われども、人の心はそんなに変わるものではないでしょう。

 

 普通にこの俳句を読んでも、好きな歴史書を読んでいて、あれこれ考えていると、一つの好きなことを追求することも、順風満風どころか、結局は「自分と向き合うこと」ですね。安吾が豪語してるように、人生の私たちの「心の故郷は孤独である」ことは間違いないでしょう。

 

湯川秀樹は「学問研究における孤独とその孤独に堪えた経験のない人とは研究の独創性ということについて議論することはできない。」と言う意味のことを書いていますし。

 

 

しかし。

それはある意味、「人生の楽しみ」とも言えます。

 

また、「安吾の一つの奇跡的な孤独の新しい視点の発見」は、人々に勇気をくれます」まさに、安吾は、人生のカットバンでもあります。

 

 

そして、私たちは、雪の降る中、新年を迎えるために、生活のために「火を灯す」=「炭をつぐ」わけです。

 

 

  この最低限の自分の楽しみは、忘れなければ、他人の生活と比較して、自分の生活を惨めと思ったり、他人の生活や持っているものに、羨ましいとか思うことはずっとなくなることでしょう。

 

 

  自分を見失わず、自分と見つめ合うことですね。そして自分が自分で幸福と思える人は、誰よりも真に幸福なはずです。

 

  それくらい、「自分を知る」と言うことはなかなか難しいことです。

 

  三島由紀夫と対談もしたことのある、小林秀雄は、三島由紀夫が自決した時にこう言いました。私が大学時代に読んだ本なので、今でもはっきり覚えています。(言葉のニュアンスは違うと思いますが)

 

   小林秀雄は言います。

  「彼のように心理分析が得意の人間であっても、自分の無意識の世界は完全に理解していたわけではない。そうでなければ、この自決は、私を泣かせなかっただろう。」

 

 

   三島由紀夫は安部公房との対談の中で、「無意識なんか本当にあるのか?」と言っています。

 

   自分とは何か?

 

 

     これは人生で1番の難問であります。・・・・そして、1番の難問でもあり、魅惑的な問題でもあり、必須の問題でもあります。幸福になるための・・・・・・・・・・・・・・・です。

 

 

 エピクロスは、欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定しています。

 

 

  少し話はそれます。

  私が、27歳の時にフランスに言った時に、バスガイドさんが、「フランス人は子供を産まない。それはまずは、ボーナスがないと言うこと。それと、子供には一人に一つの部屋を与えるのがフランスの昔からの習慣だから」と言っていました。へえ、と私は感じたことを思い出します。それからはや、40年。今や、フランス人の女性は、子供をバンバン生んでいます。

 

 

 資料。

フランスでは1994年に1.66となった出生率が2000年に2.00に回復、2015年は1.92で、先進国の中でもスウェーデンやアメリカと並びトップにある。ちなみに日本は1.45だ

 

 これは、国民の一人一人が、「フランスの国がこのままでは滅亡してしまう。フランス語を話す文化が存亡する。これをなんとかしなければいけない」と 思ったから、政治家を含めて、国全体が危機を感じて、対策を打った結果ですね。

 日本は、全く意識がありません。

 諦めだけです。

 

 日本語が滅亡することと、日本国家が滅亡することは、比例します。

 もっと日本人が一番下手な議論を交わすことで、少子化の対策をすべきです。

 政治家だけの問題だけではありません。