「人魚姫」は幼稚園頃に読んだ、いや見た筈だが、その絵が今でも脳裏にはっきり焼き付いている。
海の泡となって天に登っていく図ですね。
何回も泣いた記憶がある。可哀想に・・・
実はアンデルセンは今で言えば、引きこもりの少年である。
父親は貧乏な靴屋で早死にしているし、母親は年上の女房であったが、文字も読めなかったらしい。ただひたすら、ひきこもりのアンデルセン少年を盲信し愛したことが記録にある。
靴屋に生まれたヤコブ・ペーメとスターリンとこのアンデルセンの共通点をさぐるのはおもしろいと思うが、とにかく、泣ける童話ですね。
クリスマスが近づくと私はこの童話を手にとり読んでみる。
そんな雪の中。ひとりの貧乏な少女がマッチを売りながら歩いている。
一本も売れないので、家のかたすみで途方に暮れる。
あまりにも寒いので少女はまず一本のマッチをすってしまう。かじかんだ凍り付いた指の中から暖かい炎が彼女に見せたのはまずぴかぴかの飾りのついたストーブ。
すぐにマッチは消えてしまいあたりには暗闇が・・
少女はまたマッチをする。
こんどはまるやきの鳥がでてきて、いかにも美味しそう。背中にフォークをさしたままガチョウが少女の方に歩いてきます。
でも、よろこんだのつかのま、またマッチの炎が消えて彼女の前には冷たい壁があるだけ。
ピカピカ光るそのろうそくが列になって空に舞い上がって行くではありませんか。
マッチがまた消えたが、ろうそくのひとつが流れ星になって落ちて行きます。
あっ流れ星だ、だれかがなくなったのだわ。そう少女はいつかなくなったおばあさんが流れ星が流れた時には死んだ人の魂が天に召されるのよいう言葉を思い出す。
そのとき、少女はマッチの束を一度にすると、目の前にはおばあさんがたっていました。
おばあさん、わたしもつれてって・・
マッチの火がもえあがり、おばあさんの姿がおおきくなりました。
こんなに大きくおばあさんの姿が大きく見えたことはありません。少女はおばあさんに暖かく抱きしめられながら天国に召されていきました。
翌日、家の片隅で少女が死んでいるのが発見されて、群衆が集まっていました。
と、物語はあまりにも有名なのでここに書くまでもないのですが、冷たい暗闇の中でひたすらマッチをすり続ける貧乏な少女の姿には私はなにかしら単に悲しい物語以上の普遍的なものを覚えてしまいます。
アンデルセンの母親は私生児で、かなり小さな頃に苦労しており、その姿を見ていた幼児のアンデルセンに多くの影響を与えたことはまちがいありませんね。
この少女は母親の投影と見てもまちがいなさそうです。
アンデルセンが、生涯を独身でおくり女性に対して、かなりの美化を強めたことは誰しも想像がつくことでしょうが、三島由紀夫氏が指摘しているように、「この世は異性に対する純粋な美化をまったく失ったら、それはそれは退屈と欠伸と自堕落の日々が待っている」ことは言うまでもありませんね。
相手から自分を少しでもよりよく見せたいのは何時の世でも同じ、「すこしでも自分を高めて自分が憧れる尊敬する相手に合わせたい」というスタンダール的願望のなくなった恋愛は、退屈で、惨めなものだと私は思いますが、いかがなものでしょうか?
ひきこもりは現代では自閉としてマイナス要因としか見られませんが、アンデルセンやアインシュタイン、あるいはその他もろもろの「「imagination」が偉大な人物達に共通して見られる要素」は、「孤独と不器用さとそしてなによりも母親の愛で幼児期にしっかり抱きしめられていたという事実の不思議さ」を、男性である私は(女性に対しての、特に母親への尊敬を)感じ入るばかりです。
ひきこもり少年と、しくしく少女よ、だから頑張りなさい。