私がフランス語に興味を持ったのは、澁澤龍彦氏が、フランス語学部だったからで、たまたま、以前の会社の社長もまた、東京外国語大学のフランス語学部だったせいか、よくフランス映画の話になった。・・・・・
彼女の映画は、ほぼ、見た。
と言っても、名画座は今はないし、DVDもないので、あちこちに、手を伸ばして、探しまくって、見つける楽しみがあったのであります。
・・・・・・・・・・・・そして。
なつかしき、植草甚一さん。
この題名から発せられるオーラ。
私の時代は、誰しもそうだとは思うが、中学生頃までは、まだまだ、フランスの映画や、イタリア映画、ヨーロッピアンの文化がたくさん、ラジオから流れ、映画もそれらの映画が多く、
学校帰りに、そのボスターを見ては、まだ見ることのできない年齢だけに、ドキドキするような
ときめきを感じたものだった。
中学から戻り、親が仕事から帰宅するまでの間に、テレビで、当時、洋画を中継していたので、
「穴」「わたしは夜が憎い」
「チャップリン」「カサブランカ」などだったであろうか。
夢中で見たものだった。
そして、なぜか、母親が帰ってくると、不思議と、慌てて、悪いことをしているかのようにテレビを消した。
たしかに、洋画を見ることは親はあまり良い顔はしなかったような気もする。
高校生になり、映画も自由に見ることができ、ロックやjazzやらのカルチャーがどっと、仲間の間で広まる。
今のゲームの話と同じで、当時は、流行のそれらのアメリカの文化を聞かねば皆の話についていけなかったのである。
自律神経、視線恐怖にやられていた私は高校時代は、自閉の学校生活だったせいか、音楽ばかり聞いていて、大学に入ってからステレオのない部屋で、植草甚一さんなどの本にはまっていった。
当時は、横浜に植草さんがよく現れると聞いていたので、「ちぐさ」「りんでん」「ダウンビート」などにさかんに行ったものだった。
今からふりかえると、この当時はもうアメリカアメリカアメリカ。
フランスの、イタリアの、ドイツの、伝統と歴史のパイにはさみこまれた重厚な料理というよりは、まさに、インスタント的な、破壊的な、瞬間的な、・・・感性のみの、文化ではあったが、
当時の若者には大受けしたのだった。
植草さんは、三日間連続徹夜でアメリカの小説を読みふけって自律神経をおかしくするような、大の本好き。
しかも、変わっているのは、ベストセラーや古典よりも、アメリカの新人作家のみを漁っては、珍本を探して、紹介するのが非常に上手だった。
彼の良いところは、若者と自分の間に線をまったくひかないところ。
いつも派手なTシャツを着ては、たぶん、今でも生きていれば、渋谷にしやがんでいる女の子や男の子たちと、ファッショングッヅについて楽しくおしゃべりをするようなこともしたのではないか。
丸谷才一氏との対談でも、その驚くべき博学と、雑学、独特の美意識には感銘した記憶がある。
私はミステリーをあまり読まないので、ほとんど彼の洋書や、古本の買い方を、学んだ。
今でも、最初に飛び込んだ古本屋で、一冊も買わないとその日一日が不漁、という言葉は私も信じていて、必ず一冊は買うようにしている。
30代の頃にも、神田の神保町で、洋書を見て回った日々。
懐かしい。
この写真はサラリーマン退職後に、50代の時の神田で古本を買っていた頃のもの。・・・
今でも、彼の愛した喫茶店があって、私も東京に出るときには必ず寄るところだ。
喫茶「さぼーる」。同じ店がふたつある。増築したのだと思う。
ここのスパゲッティも彼はよく食したと聞いていたが、あまり美味しくないので、というよりも、自分でつくったスパゲッティが一番だと思っているせいか、神田に行くときには、この「サボール」の前にあるラーメン屋に入る。
値段と味のバランスは良いと思う。
オリジナルの大きさの写真です。