ビックコミック賞「白鷺」『青春の殺人者』「太陽を盗んだ男」「顔」「野いちご」 |   心のサプリ (絵のある生活) 

  心のサプリ (絵のある生活) 

画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
至高体験の刻を大切に
絵のある生活 を 広めたいです !!!

  「現状維持というのは、つねに醜悪な思想であり、また、現状破壊というのは、つねに飢え渇いた貧しい思想である」          三島由紀夫





マンガ、コミック、comic、カツーン、・・・・・・
それらは、いまや、世界の最先端のartと言っても過言でもないかしれません。

ピンからキリまで、巨大で膨大なる無意識の渦潮ですが。・・・・・


・・・・・・・・・・


戸峰美太郎・・・・・・・
ビックコミック賞作家である。




彼の傑作。「白鷺」

ビックコミック賞を獲得している。
 このマンガ賞はむずかしので有名。実際にこの賞について言えば、全18回のうち「ビッグコミック賞」そのものを受賞したのは70年(第4回)の、この、戸峰美太郎と75年(第14回)の一ノ関圭のたった2人だけ。


残りの作家は皆、佳作か、準佳作(たとえば、やまだ紫、谷口ジロー、日野日出志、西岸良平、御厨さと美、諸星大二郎、弘兼憲史、わたせ青三…などなど、すごいそうそうたるメンバー。


若き頃に、買って、大事に書庫にしまいながら、たまに、開いては感心している。・・・



  心のサプリ    

  絵のうまさは抜群。


 一ノ関嬢のデッサンにはかなわないが、独特のデフォルメが美しい。
 個人的には、こちらの線の方が好き。

  かなりの小説を読んでいると思われる。


  複雑に屈折したドラマが読み応えあり。


 この神鷺も、私の愛蔵であるが、私は彼の物語よりもデッサンにひかれる。
 女性の魅力をひとつのパターンにはしているが、それでも、十分に彼女達の羞恥は素晴らしい日本の文化。 なんでこんなに女の心理が詳しいのかと昔から気になった作家だった。
 暗さがどうしてもヒット作にはむすびつかなかったのだろう。いつしか、消えた作家だったが、佳作でいつまでも記憶に残る名作である。


  神社の境内に棄てられていた少女。そしてその横に死んでいた白鷺。捨て子の運命。
  知能指数の低い兄。情愛深い祖母、そして病弱のその娘。  心のサプリ    
  彼女は小さな頃から捨て子として皆からいじめられたのも、愚鈍の兄がいいふらすから。
  そのため彼女は、自分のことを神さまがこの家族に与えた鷺なんだと言い聞かせる。  心のサプリ    
  ひたむきに家族のために働く聖子。さとこ。


  いつしか、美しく成長した彼女は一家を支えるために、バーにつとめる。 
  たくさんの言いよる男たちとは距離をおく。
 そんな彼女に優しき男の明があらわれる。  心のサプリ    

  そんな彼女のきもちを察してか、祖母が急になくなったのは、聖子が明に家族の秘密をうちあけたから三日目だった。
  そんななか、兄が風呂をのぞいたり、聖子のあとにどこにでもついてきて、僕のお嫁さんになってと言うようになる。まるで、嫉妬しているかのように・・  心のサプリ    

  そしてまた、母も遺書を知能指数の低い兄にたくし、「これを聖子にわたしなさい」と、大きく「遺書」と書いた手紙を聖子に手渡しする。
   聖子は泣きながら家に駆け走るが、すでに遅し、母は首をつっている。
   皆、私の幸福のためにしてくれている。
 そう考えれば考えるほど、聖子は逆に嬉しいよりも、孤独になる自分を感じる。
   
  どうしても一緒になってくれと家を勘当されても飛び出した明を棄てて、聖子は知恵おくれの兄と一緒に暮らすことを決意する。


  心のサプリ    
  心のサプリ    



  苦労のなかに苦労した彼女は、自分が支えて来た家族に対する愛情だけが彼女のアイデンティティだったのかもしれない。
  「私をひとりぽっちにしないでよ」彼女は世間並みの幸福を棄てて、自分の小さなころからの自分が支えて来た兄とともに生きることを選択する。  
   甘くない現実の生き様が丁寧に書かれている。



  いつも思うが、物語はやはり言葉。言葉が最初にあるのだと思う。
  それは小説である。

  そして、それをひとりだけで、金もかけずに、ありとあらゆる自分だけの孤独な想像力で、映画をつくるようにして、書き上げるのがマンガ。


  総合芸術として、金をふんだんに使い、たくさんの才能を組み合わせ、皆でアイデアを出し合いながら、理想のイメージを作り上げて行くのがシネマ。


 


ところで、映画。



毎日のように、三島由紀夫と小林秀雄と川端康成などの作品をすこしずつ、ウィスキーをちびちびやるように読んでいる。
 そこに、新作の映画を見たり、古典の名作映画を見たりする。再試聴も多い。

 たまたま、山田洋次監督の「鬼の爪」を見た。2004年版だから、10年も昔のシネマだ。







 切腹のシーンや、侍というものに対する考え方、時代考証やら、当時の歴史などの視点などなど、ふたりの考えはまったくと言っていい程違うことに驚く。三島と山田。


 たしか、ふたりとも、東大法学部ではなかったろうか。
 今調べてみると、やはり、そうだった。

 興味深い。
 思想的にもまったく正反対。


 三島由紀夫は純粋すぎて、その意味では、山田洋次のほうが、水清ければ魚棲まずということにおいては、上だったろうが、少し左寄りなので、時代の歴史の捉え方には個人的には不満。
知識人や、文化人と言った人は、頭でっかちで、地に足をついたような意見を吐くことは少ないが、この人は、その中では、人の見方はまだ良いと思うが、それでも、ワンパターンはぬぐえない。

  山田が中国で人気が高いというのも、うなずける。

  どのような映画をつくれば、当たるということをよく知っている人。
  その意味では、淀川長治さんが、「シンドラーズリストは、あれは、賞を取ろうと取ろうとしているのがわかるので嫌い」と以前書いていたが、山田も、その意味では、似た感じもする。


   文化人独特のずるさがあって、潔さに欠ける。
   そして、観客=女性ばかりの視点を感じながら、受けを狙っている感じもする。



  しかしながら。


  どこで、観客を笑わせ、喜ばせ、泣かせ、最後に納得させるようなラストを持ってくるあたり、さすが、プロだなあと、思って感心した。
  さすが、寅さんで、そのあたりのコツを会得したのだろう。
  


   私の不満なところは。
   白土三平もそうだけれども、いつも、お殿様は、悪人として描かれる。
   その意味では、この映画もその陥穽におちいってはいると思う。
 もっと新しい、描き方の視点はないのだろうかとふと、情けなくなる。



  日本人の大好きな四十七士の討ち入りを見てもわかるとおもうが、いつの時代、どこでも、権力者というものは、いろいろな人がいるのだと思う。



   ワンパターンな描き方は、見てみて、またかという気持ちにさせられて、カタルシス不満になってしまう。・・・たしかに、映画のような、勧善懲悪みたいなものを得意とする総合芸術においては、悪人をしっかりとつくりあげたほうが、観客受けは良いのだろうけれども。
    でも、ワンパターンはいけない。



  剣について。


  たとえば、三島由紀夫の「奔馬」などを読んでも、「剣道」のシーンなどは、その試合場の背景の、山々までも、神道につらなる神話の神秘を感じさせるような環境のなかで、生々しい、剣と剣のぶつかりが、描かれていて、ああ、これは映画にはできないなあ、とため息がでてくる。



  「潮騒」という映画があったけれど、あの映画のほうが、この「鬼の爪」より、深い。





  やはり、神社というものや、山に囲まれて自然のなかで生きているその神秘感みたいなものを描こうとしてして、好感ももてる。これまた、やはり、小説には映画は勝てていないが。



 女優もそうだ。


 松たか子は、すごく好演しているが、私のようなマニアックな映画ファンからみると、「潮騒」の吉永小百合や、山口百恵のほうが、惹き込まれるのはやはり、年なんだろうなと思う。


  気高さみたいなものは、いくら演技力をつけても、そう簡単に体や魂からでてくるものではないと思う。








 まあ、そんな勝手なことを思いつつ、これから、三島由紀夫の仮面の告白を再読しなおします。




・・・・・・・・・








 私が、若き頃は、まだパーソナルコンピューターというものが普及していませんでしたから、ある意味、アナログ時代で青春をすごしたことは、良かったと思います。
情報に振り回されるどころか、一本の映画を見ても、その映画のことを調べるのも大変で、数千円もする本が買えずに、よく、新刊本屋で立ち読みしたり、古本屋で、安い本を探したり、それは大変でしたが、それが、逆に、自分の「好き」をつくってくれました。


 今や、本屋に行っても、どれを読んだらよいか、どの本を買えば良いのかわからないくらいに、積み重なった本の山・・・・・・・

 したがって、流行としては、本を薦める専門家みたいな職業もでてきていますが、どうなんでしょうか?


 若き頃は、目もまだまだ衰えていませんから、どんどん乱読して、そこから、自分の舌にあう作家を発見して、三島由紀夫が言うように、こんどは、その作家の全集やら、推薦文やら、日記やら、たどりながら、読んで行く楽しみ。

 そこから、その作家の尊敬する作家や、好きな本なんかを芋づる式に、読みあさる。


 そんな楽しみがあったものですから。



 映画も同じ。・・・・・・・・




 私が、サラリーマンになった、新人のころ。

 昭和51年。
 
 仕事があまりにも、忙しく、休みも月に一度とれれば良いというような、時代。
 
 スマホもありませんし。





 新聞やら、映画館の横を通過するときに、広告を見ては、あっこれを見ようとか、そんなことが楽しみでもありました。
 当然。その時代。
 ゲオもTSUTAYAもありません。
 
 映画は映画館で見るものでした。
 音楽は、コンサートホールや、jazz喫茶できくもの。
 

 それが良かったです。・・・・・・一本見るたびに、いろいろ考えることができましたし、その映画館の雰囲気・空気感・ほとんどが、汚い映画館で、足下にはコーラの瓶がごろごろしていましたし、タバコを吸っている人もたしかいたような記憶があります。


  だからこそ、映画を見る記憶というものが、自分の人生の連続として、記憶の井戸のなかにチリのように沈殿することが可能だったのではないでしょうか。


  ・・・・・・・・・・・・





『青春の殺人者』




長谷川和彦の第1回監督作品。1974年に千葉県市原市で実際に起きた親殺し事件を下敷きにした中上健次の短編小説『蛇淫』をもとに、田村孟が大胆に脚本化した。深い理由もなく、行きがかりから両親を殺してしまった青年とその恋人の末路を、突き放した視点から描く。



市原悦子
また、その演技力の高さから俳優座が生んだ三大新劇女優の1人と称されている(あとの2人は岩崎加根子と渡辺美佐子)。

原田美枝子



原田美枝子といえば、このようなイメージだと思うのですが、昭和51年度を体験している私から見ると、こちらの写真が彼女のイメージであり、強烈に印象的です。
勝新太郎の撮った、彼女の写真集もまた、素晴しい傑作写真集でした。
勝VS美枝子―写真集 週刊プレイボーイ特別編集 (1980年)です。


今はすぐにヌードになってしまう時代。彼女のこの写真集を初めて見た時のような、衝撃をあたえてくれる写真集はもうできないと思います。
この写真集は昔売り払ってしまいましたが、勝新太郎と、篠山紀信の写真は、日焼けした彼女の姿が今の彼女とはまったく違うイメージで、素晴しいです。・・・・・・・・


私にとっての原田美枝子は、こちらの写真のイメージです。





長谷川和彦監督の作品は、これもすごいです。
今の核テロリズムを扱った作品の先駆けではないでしょうか。



「原爆を作って政府を脅迫する」という奇想天外なアイデアの日本映画。大掛かりなカーアクション、国会議事堂や皇居前をはじめとしたゲリラ的な大ロケーション、シリアスで重い内容と、ポップでエネルギッシュな活劇要素が渾然となった作品である
原子爆弾製造や皇居前バスジャックなど、当時としてもかなりきわどい内容となっている。

本作は長らく(現在も)カルト映画の位置付けで『狂い咲きサンダーロード』との邦画2本立ては、1980年代の名画座の定番プログラムであった。しかし、近年では一般的な評価も高めており1999年キネマ旬報「映画人が選んだオールタイムベスト100」日本映画篇では13位、2009年「オールタイム・ベスト映画遺産200(日本映画編)」〈日本映画史上ベストテン〉では歴代第7位に選ばれている。1970年代以降の作品としては、『仁義なき戦い』の第5位に次ぐものである




池上季実子は、今はこのようなイメージでしょうが、




私の時代にとっては、このクリップの方です。



1984年の『陽暉楼』で第7回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、1989年の『華の乱』で第12回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞をそれぞれ受賞。女優として絶頂期を迎える。
1985年、結婚(当時はできちゃった婚と言われていたが、実際は報道以前から既に籍を入れており、それからの妊娠だった)。入籍発表をしていなかった理由は「それ以前のマスコミによる嘘の交際報道により深く傷つき、マスコミ不信になっていたから」と後に告白(妊娠がマスコミにばれた為、会見を開いたところ、できちゃった婚として世間に広まった)。女児を出産したが、後に離婚。



そして、沢田研二・・といえば、
彼のことを最高にセクシーな男性だと絶賛するのが、藤山直美。

彼女が出た映画が、2000年にあった!! 傑作中の傑作。


「顔」である。









『どついたるねん』『王手』『傷だらけの天使』シリーズで男性の持つ世界観を独特の技法で描いてきた阪本順治監督が、喜劇女優・藤山直美を迎え、初めて女性を主人公にして作り上げた異色の犯罪映画。

2000年度の日本国内の映画賞を多数受賞した。

福田和子の事件をベースにしている。




池田彰:佐藤浩市
中上洋行:豊川悦司
中上律子:大楠道代  と、脇役もまた、すばらしい。


見ていると、藤山直美がまるで地でやっているような、男ダスティ・ホフマンのような、独特の切なさ、わびしさ、ユーモアとペーソスのある演技で、リアルさを出している。


実際の現実とは同じかはともかく、宇野イサムシナリオがよく出来ていて、感心した。

佐藤浩市と豊川悦治が、若き日の、しなやかな演技と、渋い男らしさをこれまた出していて、映画をひきしめる。

大楠道代もまた、人生の底辺で生きているひたむきな女性として藤山直美を助ける。

ただ金だけで生きているような最近の水商売の輩とは一線をきす不思議な存在。・・・・・・



自分の愛する人たちにつぎつぎに死なれて、孤独のなかで、埋もれ死ぬ・・・そんな女達。


妹の死霊の存在に常におびえながら、逃げ惑う藤山直美。


・・・・・・・・・・・・・・・・あの有名な事件がこの映画で、また、違う視点で、息づく。


名作だと個人的に思う。

なお、父親の血をうけつぐ、藤山直美は、
ギャグにも挑戦しています。自分の方から、出演を依頼したとか。






第24回日本アカデミー賞
優秀作品賞
優秀助演女優賞
優秀脚本賞
優秀音楽賞
最優秀監督賞
2000年度キネマ旬報 日本映画ベスト・テン
日本映画ベスト・テン1位
読者選出日本映画ベスト・テン1位
監督賞(阪本順治)
主演女優賞(藤山直美)
助演女優賞(大楠道代)
脚本賞(阪本順治、宇野イサム)
第25回報知映画賞
最優秀作品賞
最優秀主演女優賞(藤山直美)
第13回日刊スポーツ映画大賞
監督賞(阪本順治)
助演女優賞(大楠道代)
第55回毎日映画コンクール
日本映画大賞
監督賞(阪本順治)
女優主演賞(藤山直美)
美術賞(原田満生)
録音賞(橋本文雄)
第43回ブルーリボン賞
監督賞(阪本順治)
第22回ヨコハマ映画祭
2000年度日本映画ベストテン第1位
作品賞
監督賞(阪本順治)
主演女優賞(藤山直美)
脚本賞(阪本順治、宇野イサム)
審査員特別賞(プロデューサー:椎井友紀子)
2001 朝日ベストテン映画祭
ベスト オブ シネマ2000 日本映画第1位
第15回高崎映画祭
最優秀作品賞
主演女優賞(藤山直美)
助演女優賞(大楠道代)
助演男優賞(佐藤浩市)
2000年度 映画芸術日本映画ベストテン 第1位













 「青春の殺人者」の年。
「タクシードライバー」を再視聴。
感動!!!!




「タクシードライバー」



1976年公開のアメリカ映画。制作会社はコロムビア映画。監督はマーティン・スコセッシ。脚本はポール・シュレイダー。主演はロバート・デ・ニーロ。
第29回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品。また、1994年にアメリカ議会図書館がアメリカ国立フィルム登録簿に新規登録した作品の1つ。

大都会ニューヨークを舞台に夜の街をただ当てもなく走り続ける元海兵隊のタクシー運転手が、腐敗しきった現代社会に対する怒りや虚しさ、逃れられない孤独感から徐々に精神を病み、ついには自分の存在を世間に知らしめるため過激な行動に走る姿を描く。1960年代後半から1970年代中頃にかけて隆盛を極めたアメリカン・ニューシネマの最後期にして代表的な作品とされている。






 タクシードライバー。
 この戦争後の不眠症などの精神的な病気の深刻を描く作品は、私は、「 アメリカンスナイパー  」を連想します。これは実話ですが。クリント・イーストウッド監督の、ある意味問題作。
 見るたびに、戦争とはなんだろうか・・・・いつも考えさせられる深くて切実な映画です。
 私は基本、左翼的な、反戦映画などには反対の立場ですが、この映画は、カッコいい戦争というものは、ないということを強く印象つけてくれます。

 



「アメリカン・スナイパー」
 







この昭和51年。

この作品もまた、あります。
『バリー・リンドン』(Barry Lyndon)は、スタンリー・キューブリック監督が、18世紀のヨーロッパを舞台に撮り上げた1975年のイギリスの映画である。原作はウィリアム・メイクピース・サッカレーによる同名の小説(1844年)。アカデミー賞の撮影賞、歌曲賞、美術賞、衣裳デザイン賞を受賞した。







 この映画のなかに出てくる戦争シーンはまたまた、歴史を感じさせます。
 鉄砲で撃たれても撃たれても、ひるまずに、楽器を演奏しながら、敵に向かって行進する軍隊。



キューブリック唯一の「伝記的」な様式を持つ作品である[1]。
キューブリックは当初、ナポレオン・ボナパルトの映画化を目論んでいたが主に予算の都合で断念し、代わって製作されたのが本作である。時代考証はもちろんだが、ライティング、美術、衣装に至るまで、完璧主義者であるキューブリックは見事に18世紀を再現してみせている。またこの時代の雰囲気を忠実に再現するため、ロウソクの光だけで撮影することを目指し、NASAのために開発されたレンズを探し出して使用した。
軍隊はすべてアイルランド陸軍の歩兵を利用した。映画化の叶わなかったナポレオン時代の戦争に関する研究が広く活かされる事になったが、撮影当時は北アイルランド紛争の激しい時で、スタッフ・キャストの移動にも細心の注意をはらったという。
アカデミー賞を受賞するなど評価は高かったものの興行的には苦戦し、制作費回収には年月を要した。著名な原作とスターを起用した娯楽作品による興行的な成功を目指したキューブリックが次の作品として選んだのが、スティーヴン・キングの『シャイニング』である。




 この映画は、個人的には、キューブリックの最高峰だと考えています。
 というよりも、彼の作品は、すべて大好きなので
 個人的なフェボリットですが。・・・・・・・・
 











 この昭和51年。
 ベトナム戦争などの傷跡の残る映画がたくさん見れました。
 その流れが、「ディア・ハンター」や「地獄の黙示録」に続いて行きます。


 「タクシードライバー」のジュディ・フォスターや「頑張れベアーズ」のティタム・オニールなどが、少女スターが光った年でもあります。







 ◎資料 ジョディ・フォスター
1972年に『ジョディ・フォスターのライオン物語』で映画デビュー。1976年公開のマーティン・スコセッシ監督作品『タクシードライバー』で12歳の少女娼婦アイリス役を13歳にして演じ、全米映画批評家協会賞助演女優賞や英国アカデミー賞 助演女優賞などを受賞、アカデミー助演女優賞にノミネートされ、高い評価を得た。しかし、この映画は同時に多方面に影響を与え、ジョディの熱狂的なファンを自称するジョン・ヒンクリーによって1981年にレーガン大統領暗殺未遂事件が発生。この事件に衝撃を受けたジョディは、一時期映画界とは距離を置いた。
1984年公開の『ホテル・ニューハンプシャー』で本格的にスクリーンへ復帰以降、1989年公開の『告発の行方』と1991年公開の『羊たちの沈黙』でアカデミー主演女優賞を受賞。人気・実力共にアメリカを代表する役者の地位を不動のものとした。
1991年に『リトルマン・テイト』で、映画初監督。自ら設立した映画制作会社エッグ・ピクチャーズ・プロダクション制作の第1回作品『ネル』(1994年)以降は、映画プロデューサーとして映画製作も行うなど活動の幅を広げている。
また、フランス語を流暢に話せるので、フランス語版の吹き替えはほとんど自身で行っている[2]。英語圏の女優達の中で、キャンディス・バーゲン、ジャクリーン・ビセット、クリスティン・スコット・トーマスらと共に外国語(英語以外の言語)に堪能な数少ない女優の一人である。
私生活[編集]
未婚のまま1998年と2001年に男児を出産(父親の名前は公表されていない)[3][4]。
2007年12月のロサンゼルスでの式典で、15年来の交際がある映画プロデューサーのシドニー・バーナードについて、「いつもそばにいてくれる美しいシドニーに感謝」と謝辞を捧げたところ、「レズビアンであることをカミングアウトした」として一斉に報道された[5][6]。なお、2008年5月、破局したとの報道がなされた[7]。
2013年1月の第70回ゴールデングローブ賞授賞式において、自身が同性愛者であることをほぼ公表した(正確には「カミングアウトすると思ったでしょ?」と発言しており、公には認めていない)。
2014年4月、パートナーの女性写真家アレクサンドラ・ヘディソン(Alexandra Hedison)と同性結婚した。
 




「がんばれ ベアーズ」





◎資料
ティタム・オニール
カリフォルニア州ロサンゼルス市出身。父親は俳優のライアン・オニール、母親は女優のジョアンナ・ムーア。1967年に両親は離婚。弟グリフィン・オニールも俳優。
9歳の時に父親と共に映画『ペーパー・ムーン』に出演、最年少(10歳)でアカデミー助演女優賞を受賞。シャーリー・テンプルの再来かと騒がれる。1976年の『がんばれ!ベアーズ』の頃は最も稼ぐ子役スターだったが、以後は役に恵まれず次第にスクリーンから遠ざかってゆく。
近年は『セックス・アンド・ザ・シティ』や『LAW & ORDER』などのテレビシリーズ、単発のテレビ映画、『ダンシング・ウィズ・ザ・スターズ』のようなリアリティ番組への出演が中心だが、2002年の”The Scoundrel's Wife”でサンディエゴ映画祭の主演女優賞を受賞している。






ベルイマン続いて見ています。



「愛欲の港」





この「愛欲の港」や、「夏の遊び」は、DVDがいまのところ、見つかりませんが、
ありがたいことに、YouTubeで、イメージくらいは見ることができます。

このシーンも、有名なシーンで、実際のフィルムをこのクリップで、見ることができます。


「夏の遊び」



歯磨きシーンの新鮮!!!


「不良少女モニカ」




1952年の公開当時、とりわけキリスト教が生活の規律として沁みこんでいた欧米圏を中心に、センセーショナルなストーリー展開とオール・ヌードを含む性描写に深刻なショックを受けた観客も多かった。今見ると、当たり前の恋愛映画だが、それがまた、わたしたちのこころの麻痺でもある。





おんなの謎。
ベルイマンは五度も離婚して、女の良いところも悪いところも、知り尽くしているというよりは不器用に自分なりの不可解な女へのアプローチを繰り返すタイプなんだとも思う。









おんなの本能として、おんなは男を見ている。
自分を食べさせて行けない男はその時点でもうアウトなのだった。









「野いちご」




本作品は公開と同時に全世界で批評家の絶賛を浴びた。第8回ベルリン国際映画祭金熊賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞外国語映画賞など多くの映画賞を受賞、ベルイマンに更なる名声を齎した。日本でも本作品の人気は高く、1962年度のキネマ旬報外国語映画ベスト・テン第1位に選出された。


そして、「野いちご」・・・・・
素晴しい画像・・・。
たった一日の老人の心理描写。



ジョイスの小説のように、ただ一日、ただ一日だけの、老人のこころの描写を描く!!!


最初、夢のなかで、不思議と、なにやら、つげ義春の「ねじ式」の目医者のシーンのようなイメージがでてきた。

目の図が、看板になっている。


つげ義春もおそらく、この映画を見ていて、無意識に夢のシーンを書いたのかもしれない。

つげ義春が、夢で見た物語を描いたら、「ねじ式」になったと言っていたが、赤塚不二夫が、
そりゃあウソだろうと笑っていたが・・・・・・・・


ここでも、よく出る図式がある。
つまり、イサクの若き頃に、弟に好きな彼女を奪われてしまう・・・・・図式。

女性の赤裸裸なイメージ。
もちろん、ベルイマンの思い込みが描かれる。

「軽蔑」のモラヴィアにもよく似ている図式。

インテリ女が、生命力の象徴とも言えるような大胆な女性に嫌われる、という・・・

煮え切らない男が、モラヴィアの作品ではよく、女性から棄てられる。


あるいは、自分の妻を守りきれない男もまた、棄てられる。


嫌いな男性から言いよられて、自分の操を守りきれないという女性のこころの訴えを、理解できない、いや、こころでつかめない男の悲惨。悲劇。









「冬の光」は先日見ました。



◎物語の骨組み
スウェーデンの小さな町の冬の日曜日の朝。古めかしい教会の礼拝堂で、牧師トマス(G・ビョルンストランド)は会衆を前にミサを行っている。風邪をひいて体調は最悪だったが、無事ミサを終えてほっとしていると、漁師の夫妻が相談に乗ってほしいという。妻のカリン(G・リンドブロム)は、夫のヨナス(M・V・シドー)が中国も原子爆弾を持つというニュースを新聞で読んで以来口をつぐみ続けるので魂の安らぎを与えてやってほしいという。しかし牧師自身も最愛の妻に先立たれてから失意のどん底にあり漁師の悩みを解決してやれる状態ではなかった。夫妻はもう一度出直してくるといって帰ったが、そこに女教師マルタ(I・チューリン)が来て、彼のことをあれこれ気づかう。マルタは妻亡きあとの彼の愛人だったがトマスにとってはそんな心づかいもマルタの過剰な自意識とともに辟易しているのが本心だった。だから前日、彼女から届いた手紙も読まずポケットに収めたままだったが、ヨナスを待つ間、それを読み始めた。そこには、二年越しの二人のいきさつが愚痴ともつかず愛の告白ともつかぬまま、くどくどと並べられていて、トマスの焦立ちは深まるばかりだった。再び訪ねて来たヨナスと向きあったが牧師としての自信が揺らいでいる彼は常識以上のことは何もいえずヨナスには何の力にもならなかった。ヨナスはそれから間もなく、激流が音をたてる河辺でピストル自殺で命を絶った。そして、マルタは彼の煮えきらない態度に決断を迫り、ヒステリックな言葉のやりとりの末、トマスとの訣別を知らされる。それから数時間後、隣の教区の礼拝には一人の会衆も見出せぬ教会にそれでも型通りの式を進めていく牧師トマスの姿があった。いや、そこには、たった一人の聴聞者は別れたばかりのマルタだった。



◎資料によると。
ベルイマン作品の最高傑作といわれ、病を押して神の栄光を説き続ける牧師のうつろな姿を通して一貫したモティーフである“神の沈黙”を描き出す。原題は「聖体拝受者」という宗教用語で、「冬の光」は海外用の題名。一九六三年度OCIC国際カトリック映画局グランプリ、同年第八回ウィーン宗教映画週間で最優秀外国映画賞を受賞。






「冬の光」では、ビョルンストランド演じる牧師と男女の関係があり、男に執着する独身の女教師の役。・・・・・



「野いちご」の彼女とはまったく違う、凄みのある、存在感のある。良い意味での、女性の盲目的な生きる本能と知性さへも感じさせる演技。

 

ビョルンストランド演じる牧師に、愛されたいと、二年間つきあうが、結局は愛されない。
君のことは愛していないとはっきり言われたりもする。


しかしながら。



けなげに、珈琲を彼-牧師に届けたり、風邪をこじらせている彼のために、喉を楽にする薬を
持って行ったりする。
徹底して尽くす役柄を上手に演技している。


音楽でいえば、「ロンリー・ウーマン」とでもいうべき、生涯孤独で、男性からはあまり愛されないタイプの今の言葉で言えば、さえない女性を実に正確に演じきっていたと思う。


地味な服装でダサい眼鏡



特に、教室でビョルンストランドと痴話喧嘩をして、彼に執着する姿をさらすところがみどころ。



黒沢監督の「ドデスカデン」でも、たしか、ボクのぼんやりとした記憶では、あったと思うけれど、亭主を徹底していじめる、こわーーい、奥さん。
友達があまりのすごさ、サディスックな奥様に別れたらいいのにと言うと、亭主は、愛しているという、たしか、そんなようなニュアンスのシーン。



おとこと女の愛情って、複雑なのだ。


相手が発する一言に、いちいち敏感に反応していたら、恋愛もうまくいくはずもなく、結婚生活もあまりにも単調だと思う。
聞くべきところはきちんと聞いているが、そうでなければ、一瞬の気分も、高まる感情もあるだろうから、涙をながしたからと言って、慌てる事もない。


自分のこころの奥をしっかり見ていること。



そのことを、ビョルンストランド演じる牧師は、やろうとしている。この映画、「冬のひかり」のなかで・・・

だから、少し重たくもあるけれども、見応えのある作品ともなっている。


誰もが知っているように、西洋社会でさへも、今やキリスト教を単純に信じて毎日曜日にミサに行くような人は確実に減っているのだろうと思う。

それに、例のフランスのイスラム教のテロではないけれども、自らの信仰こそが正統であり、異端は許さないという、かたくなな考え方が今でも、あるんだと思う。かつては、それが、強烈だったあまり、血で血を洗うような戦いを西洋社会のどこでも、あったんだと思う。
(イギリスのプロテスタントとアイルランドのカソリックの派の争いを言う迄もなく)


かと思えば、アメリカのとある州というか、けっこうな地区で、いまだに、ダーウィンの進化論を学校で教えずに、この世界は神様がおつくりになったと教えている学校があるらしい。



日本には、やおろずの神様がいらっしゃるおかけで、「もののけ姫」のような傑作映画ができたわけだし、「せんとちひろ」の映画も、日本の神様の考え方が今、世界に浸透しつつある。
聞いた話しでは、ヨーロッパでも、仏教形式で、葬式をする人も増えているとききます。




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そんなわけで。

冬の光のなかで、牧師は、悩んでいます。

自分はしっかりした信仰を持って、皆に、説教をしているのだろうかと。


みずからの協会にやってくる人の数も、どんどん減っています。
今や、四五人の人数のひとのための説教を説くのみ。

オルガンパイプを弾く男性も、もはや、アクビをしながら、テキトウに、音楽をかなでます。




牧師。死んだ妻。その後、彼を追いかけるイングリッド・チューリン。オルガン弾きの男性。人生の悩みを相談する鬱っぽい男性とその妻。牧師にアドバイスをする友達。



そんな連中が、冬のよく澄んだ夜の空の星のようにして、ぐるぐる、牧師のまわりをまわりながら、ドラマを演じています。


ドナルド・キーンさんが、日本人の特質の五つとして。


◎あいまいさ
◎勤勉
◎はかなさのこころを理解できる 共感できる
◎清潔
◎礼儀正しい

をあげています。

そのとうりだと思います。今、世界から外国人がやってきて、私たちが、ほとんど無意識にやっているようなことを、見て、驚いて、自分の国にもどっていっては、世界にネットやTwitterで、広めてくれています。

ありがたいことですが。

この5つが、ない人もふえているような気もしますね。


こんな日本とは、ちがい、スウェーデンの牧師は、悩みに悩みます。
まさに、二元論。逃げ道を自分でふさぐような、論理的な考えをつづけなから。


そこへ、わずらわしいとさへ思ってしまう女の愛情。妻のことをまだ忘れられないというのに。
そして、信者の自殺。


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美しい映像です。
世界の黒沢・フェリーニ・そして、ベルイマンと言われるだけある作品だと思います。



夏の夜は三たび微笑む


『第七の封印』や後年の「神の沈黙」三部作などのように哲学的なテーマを取り扱った難解な映画が多いとされるベルイマンの作品群の中で、『夏の夜は三たび微笑む』はその明快なプロットと洗練されたユーモアでややもするとわかりやすい、通俗的な作品であると評されがちである。これは本作品の製作前にベルイマンのプロデューサーが、もし次回作が興行的に失敗したら二度と映画を作れなくなると脅しを掛けたからであると言われている。金銭的な危機のみならず、ベルイマン本人の慢性的な胃痛、女優のハリエット・アンデルセンとの破局など様々なトラブルの中で撮影された本作品であるが、完成するとスウェーデン国内で予想外の大成功を収めた[1]。

本作品は公開当時からスウェーデン国外での評価も高く、翌1956年の第9回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールにノミネートされた。結局パルム・ドールの受賞は逃したものの、同年に特設された「詩的ユーモア賞」(仏語:Prix de l'humour poétique)を受賞、ベルイマンは一躍国際的な知名度を高めることになった。





ベルイマンはかなりの、波瀾万丈の女関係を持っていた。そうでなければ、こんな、もつれにもつれたタペステリーのような愛の衣装はこしらえることはできないだろうと思う。






「第七の封印」



前作の『夏の夜は三たび微笑む』がカンヌ国際映画祭の特設賞である「詩的ユーモア賞」を受賞し、興行的成功を収めたことで自分の好きなように映画を製作できる自由を得たイングマール・ベルイマンが、一転して神の不在という実存主義的なテーマに挑んだ問題作である。
本作品でベルイマンは前年の『夏の夜は三たび微笑む』に続き、1957年度のカンヌ国際映画祭のパルム・ドールに二年連続でノミネートされた。受賞はならなかったものの、本作品は同映画祭の審査員特別賞をベルイマンに齎した。前作と『第七の封印』の二作続けての批評的成功は、ベルイマンの世界的な映画監督としての声望を不動のものにした。同時に映画中で重要な役柄を演じたマックス・フォン・シドーとビビ・アンデショーンの二人にとって、本作品は彼らのキャリアを飛躍させる出世作にもなった。



マックス・フォン・シドーは、「エクソシスト」で神父役をやっいたという。記憶にないが。
・・・・・・ビビ・アンデショーンは、「野いちご」にも出ていますが、ベルイマン映画にはかかせない俳優。












(映画監督イングマール・ベルイマンについて)「彼とならスクリプトガールでもいいから一緒に仕事がしたいわ」 ・・・・・・   ジャンヌ・モロー


◎スクリプト‐ガール(script girl)

映画の撮影現場で、撮影の進行を記録する映画監督の助手

















               FIN