今日札幌の時計台の写真をとってみようと思っていた。
よくよく、見ると、時計台はあいかわらず歴史の重みとそのデザインのせいか、素晴らしく
美しかったが、小さなまわりの庭は枯れ、草木もほとんどない。
これには驚く。
我が小さな岩見沢市でさへ、市役所とか、そのあたりの民家でさへ、皆、この季節、薔薇が豊かにその色を空間に撒き散らかしているというのに。
がっかりした。
私の岩見沢市の家の近くに空き地がある。
昔は、そこに町内会の会長の家があり、そこの名前は岩見沢市中に広まる有名な家だったが、
高齢化により家主は東京あたりにもどり、今は、空き地。
そこに、美しい樹々やら、草木やらがはえ、小さな林をつくっていたのに、
最近、男性三人くらいがやってきて、その樹々を切り始めた。
叫んでいるように聞こえた。
ある日、横をとうると、もうすでに、木の株があるばかり。
たんぽぽの花まで、かりとる始末。
がつかりしました。
ところが、今日見てみると、もう白アザミや、小さなタンポポやら、名も知れぬ小さな草がどんどん生えてきています。
これには感動しました。
これらの草木のひとつひとつは、人間の意識だと思います。
草木だからこそ、自然の流れ・自然のなせるままに・死に・枯れ・刈り取られ・また生まれていますが、人間だったら、泣き・苦しみ・叫ぶことと思います。
意識があるからそうなるのですね。
意識があるから、人は、月までロケットで飛び、携帯で友達と日々楽しい電話やメールをし、
テレビを見たり、新幹線をつくったり、自家用車でドライヴを楽しむことができるのですね。
この巨大な宇宙を、意識して、心のなかに、その宇宙の神秘を感じ取るようになるまで、いったい、人類は何億年かかっているだろうか??
この広い宇宙に、私たちと同じように、この宇宙を意識して、必死にその星から飛び立とうとしている惑星の住人は、はたして、いるのでしょうか・・
意識の罪と歓びですね。
もうここまできたら、あとは、同類を見つけるまでは、意識は永遠の旅を続けるしかないでしょう。
それがわたしたち人類に与えられた神様からの、ある意味、罰かもしれません。
その同類たるや、我が人類の友達とはまったくの補償もないというのに・・・・