年齢  そして  芸術 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
至高体験の刻を大切に
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 北斎の線。
 いつか、三万くらいする彼の北斎漫画を見たことがありますが、実に見事な線です。
 筆でよくあそこまでいろいろなものを表現することができるのか、圧倒されました。
 映画にもなりましたが、蛸と女性の絡む発想なども、最後の最期に、北斎の脳裡に浮かんだものなのでしょう。
 映画でも、晩年のからだが衰えてきた最期に、たちあらわれたイメージのように描かれていました。


 そして、彼の親友の滝沢馬琴。

  この人もまた、長生きして、里見八犬伝を書き上げましたね。


  ルソーと同じように、ふつうに働いてきて、50過ぎてから、創作をし始めたところが、私は親近感を覚えます。


 最近の東京芸術大学は、金持ちばかりだよ、と先回、川俣正と会ったときに彼は笑いながら言っていましたが、確かに、生活の心配もなく、絵に専念・芸術に専念できるということは、うらやましいかぎりです。


   しかしながら。


  そのようにして、書かれた作品は、人の魂をほんとうに打つことができるのでしょうか。



  たとえば、ピアニストの辻井さんや、フジコ・ヘミングのピアノは、なにやら、上手い下手を超えたところにあるのではないでしょうか。


  フジコ・ヘミングさんも、いつかテレビで言っていましたね。


 「わたしよりもテクニックの上手い人ならば、この世に、たくさんいるわよ」って。


 それなのに、彼女の演奏に心打たれる人は、何か違うものを彼女の演奏に感じるわけですね。


  滝沢馬琴は、75歳の時に、目がほとんど見えなくなりましたが、今でいう口頭代筆みたいなもので、女性の力をかりながら、全98巻の「南総里見八犬伝」を完成させました。


 ルソーも、50歳をすぎて、絵を描き始めて、あれだけの絵を残しているわけですね。



  最近、私は、敬愛する小林秀雄氏が、どうして、富岡鉄斎が好きだったのか、なんとなく理解できるようになりました。


  富岡鉄斎。


  こんなことを言います。


 「おれは知ってのとうりの儒生で、画をかくといふのが変体じゃ」
 

  要は、彼は、独学で、いろいろな画を狂ったように勉強して、自分の絵を模索しつづけていました。


  そこが好きですね。親近感がわきます。


 「唯、もう書物のなかから出して画を描くばかりで、それで、書物という書物、画論という画論は大概買って読んでいる。」


   ものすごい勉強家でした。


 「南画の根本は学問にあるのぢゃ。そして人格を磨かなけりゃ、描いた絵は三文の価値もない。新しい画家にいうて聞かせたいのは、万巻の書を読み、万里の道をゆき、持って画祖をなす」ただこれだけぢゃ。




  要は、テクニックではないということですね。


  こころとからだからあふれ出るもの、それを磨くという・・・

  一番むずかしいことです。



 
 彼の名作集をひもとくと、



  60歳までの若描きは、せいぜい三割。


  ほとんどの収録作品は、70歳の後半からふえていき、
  89歳の最期の最期になってからの作品が一番多いんですね。

  これは、驚き以外のなにものでもありません。



  小林秀雄氏も、確か、82歳まで「本居 宣長」を書いていましたから。



  ピカソの最期の晩年のエッチング。私も持っていますが、これも、
 

「 彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。多くの批評家がこれを「不能老人のポルノ幻想」、あるいは「時代遅れの画家のとるにたらぬ絵」とみなした。長い間支持者として知られた批評家のダグラス・クーパーさえ「狂った老人の支離滅裂な落書き」と評した。しかしピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。」と、

 書かれてもいますが、これは、ピカソの方が、次元が上ですね。



 評論家の銅像がどこの国でも、たったためしはないんです。


 

 芸術に年齢はありません。


 なぜならば、心の中のインナーチャイルドと、戯れることが触媒になるのであれば、
 年をとって現実の余計な贅肉がなくなったほうが、より、良き作品がかけるのでしょうから。

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 過去記事から・・・・


◎興味のある方はどうぞ。


矢代静一氏、シナリオとある。
1998年に没
  この北斎漫画は、1973年作、1981年に映画化されてます。
  DVDがないビデオ屋もあるらしく、貴重なるDVD。


  矢代さんは三島由紀夫の本を読んでいるとよく友人として出てくるので、昔からよく知ってはいたが、このシナリオはまだ未読。映画もお恥ずかしながら、昨夜初見。

  オークションで北斎の漫画、もちろんコピーだが、30000円ほどで落札し損ねたこともあり、彼のデッサンの素晴らしさくらいは了解していたが、この昨夜の新藤兼人の「北斎観」にはおおむね納得できました。
 
  映画の出来・不出来から見れば、レヴューがすでにたくさん出ていますから、「蛸とお直のからみ」が嫌だったとか、笑ったとか、いろいろ言われてますが、あれは蛸やらの道具のミスですね。別に問題ありません。
 本質は、蛸とからんだ女体で彼はホンモノになった、これは真実です。
 世界的な一枚の浮き世です。誰も文句は言えないでしょう。ただのスケベ爺のいたずら書きでないです。
 ピカソと同じく死ぬまでエロティシズムをあれだけ追求した画家は少ないです。普通ならば、平穏無事な奥さんとの生活を望むのが普通の男の気持ちであるはずで、あれだけ、自分を追い込むことはしないです。

 それだけ、絵画の、浮世絵を信じていたんです。小林秀雄流に言えば、「好きこそものの上手なれ」の世界に一人生きていた。ゴッホです。浮世絵のために狂うなんてこともへっちゃらだった。

 エニグマとしての「お直」が、北斎の永遠の女として出てきますが、樋口可南子の女優としての美しさよりも原石としての可愛らしさの方が目立ってますね。蛸を田中裕子が彼女の身体に置く時にほんとうにくすぐったがっているのは笑えますよ。(女の笑いとエロスは表裏一体だが)

 だいたいが、女の方が自然で達観しますから、人生風吹かれるままに上手に生きて行くのはだいたい、女ですよ。
 そのあたりは、男はぐずぐす、「お直」に惚れ込んで一生その幻影を追い続けますからね。娘のお栄から見ても、ただのつまらない女だったと思われる「お直」なのに、その幻影から結局は「蛸と女」をつくりだしてしまうあたりが「男の虚夢」の見本です。


 女は女にきびしいですから、北斎が惚れ込んだ「お直」の本質を見抜いていた「お栄」ちゃんは、実は一生処女のまま、生娘のまま、父親に添い遂げるのですが、私はこの「お栄」ちゃんの方に女の本質を感じますね。色気もまた。

 助演賞をこの作品で田中裕子はとってますが、当然でしょう。当時の彼女は光り輝いてます。

 たとえば、江戸小紋ならば、当時は職人同士が競い合い、「染め」職人と「型」職人が、お互いに火花を散らして、「どうだこんな細かな柄は染めれねえだろう」「どうだもっと細かな柄でも彫ってみろ」と喧嘩をしながら腕を磨いていた江戸職人の空気がでていました。

 これだけでもこの映画はたいしたものです。映画なんてものは、「道徳的に正しい」とか正しくないとか、そんな見方をしちゃいけませんね。自分の嗜好や偏見で見ればいいんです。それから、何か盗めばいいんですよ。感銘して涙が出ればもうけもの。

 田中裕子と樋口可南子の若かりし頃の素晴らしい身体。画家志望ならば皆デッサンしたいと思う筈。
 江戸の情緒を感じさせるセット。「美しき諍い女」の絵画創作のプロセスとまではいきませんが、浮世絵の創作のプロセスも楽しめます。

 呉服屋の番頭、小僧。鏡屋。私の尊敬する滝沢馬琴の実は律儀な性格。ディテールに矢代静一さんの研究リサーチ、たっぷり詰め込まれていて楽しめました。

 最後のシーンの二人の天才の死の描き方には私は少し文句はありますが、最後の最後まで乳房にかじりついて死んだ馬琴と、娘にたよりつつ幻のモデルを描こうとした北斎に拍手ですね。


 「私は今90歳だ。これからの5年間は西洋画を勉強しなおすのだ。そして、95歳から本格的に私の画業の最後の総決算をしたい。101歳になって、夏の終わり頃、私は死にたい」そう、叫ぶ、北斎の壮絶な生命力。

 ピカソ、カザルス、バルテュス、そして北斎。90歳過ぎても創作意欲の衰えなかった彼らに、脱帽。

 

 追記。
 確か、新藤兼人監督は「肉弾」撮ってますね、どこかで再度見たいな。

 緒形拳は私は一番好きな男優です。「時計仕掛けのオレンジ」のあの狂った左翼の車椅子の作家、あの演技を彷彿とさせる老人北斎演技でした。



















資料A
* 鉄蔵(葛飾北斎)緒形 拳
* お栄(鉄蔵の娘)田中裕子
* お直樋口可南子
* 左七(曲亭馬琴)西田敏行
* お百(左七の女房)乙羽信子
* 十返舎一九宍戸 錠
* 狩野融川観世栄夫
* 彫師殿山泰司
* 式亭三馬大村 崑
* 歌麿愛川欽也
* 中島伊勢フランキー堺

スタッフ

* 監督新藤兼人
* 原作矢代静一

資料B
銀座ヨシノヤの創業者一族に生まれる。東京府立第五中学校を経て早稲田大学文学部(フランス文学専攻)へ進学するも、1944年(昭和19年)に大学を休学し、俳優座に参加。『父帰る』(菊池寛原作)などで主役を張ったが、早期に製作者へ転向した。

1950年(昭和25年)に文学座へと移り、同世代の三島由紀夫と親交を深める。1963年(昭和38年)、文学座が三島作による戯曲『喜びの琴』の上演中止を決定したことで、三島と共に文学座を退座(喜びの琴事件)。グループNLT結成に参加するが、その後は三島らと離れ、フリーで新劇団などに『写楽考』『北斎漫画』などの戯曲を書き下ろす。

次女が元宝塚歌劇団雪組娘役で舞台女優の毬谷友子、姪も元宝塚雪組男役トップスターで女優の絵麻緒ゆうであり、妻も元女優の山本和子、長女も女優の矢代朝子と、宝塚・演劇関係者が身内に多数いる。













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