レモンイエロオの財布          |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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         レモンイエロオの財布



 その日吉祥寺から東急線に乗り渋谷の駅にある大きな壁画と、文化村のアンドリュー・ワイエス展を見に行ったのだが、美佐子が笑顔で出てきたのもつかのま、バックの中を急にそわそわ探し始めたかと思うと血の気がさあっとひいた彼女の気配が小松にも伝わってきた。

 「おとしちゃった、かもしれない」
 「何を」と私が聴いた言葉が場違いに聞こえるほどに彼女はいらだち始め
 「財布よ」ときっとした口調で言った。
 
 いつも美佐子は緊迫した事態になると薄い壁が彼女のまわりにできた。
 慌てた小松が、すぐにワイエス会場の入り口に行きそこの受付の女性に事情を話すと、わかりました、探してみますという返事がありその女性はすぐに会場に走り去り、美佐子と入り口のところで淡い期待と緊張感の中で待っていたが、彼女はすぐにもどってきて、残念ですが見つかっておりませんねと穏やかに答えた。

 美佐子はその間もワイエス会場に行く前に立ち寄った牡蠣の専門の店の電話番号をT百貨店のインフォメーションの女性に問い合わせている。やがて、彼女が携帯を耳から話したので、展示場には財布が落ちていなかったことを伝えると彼女の目が少し潤んでいることに気づいた小松は肩に手を置いたが、美佐子はすぐにすたすたと歩きだした。
 小松はそこで息を大きく吸い込むことで胸の中に小さなつぼみのように湧いた怒りの感情をアメリカン珈琲のように薄めようとしていた。
 やがて追いついて美佐子の左側に並んで歩いていくと、渋谷の人の波がずうっと駅まで続いており、雨はまだふっていないが雲が立ちこめている。
 「財布の中にはお金あったのか」
 「5000円だけよ」彼女の声にはすでに落ち着きがもどっている。
 「あとはカード類は」
 「免許証が入ってたのよ。」彼女の顔にまた暗い雲が覆いかぶさってきた。
 「あれがないと病院まで車がつかえないのよ」「わかる? 歩いてなんか私行けないのよ」
 警察の中で出された書類にボールペンを渡されて書き始めた頃には冷静さをとりもどした美佐子は低い机に座り小松に背中を向けて集中していた。
 しかし、彼女はあいもかわらず、口を閉ざしている。
 次ぎの 行き先は、推測はできる。
          
 渋谷に来る前にふたりで乗った東急線の渋谷、吉祥寺間の忘れ物を扱う部屋に行くのである。私が「財布を電車の中でおとしたかもしれない」と、切り出すと、駅の少しぼんやりした顔の男性が事務的に「何時頃の電車ですか」と答えるので、美佐子が「今日の二時半から三時ぐらいの間です。急行です」とはっきりした口調で答える。いまのところ届け出はありませんなとその男は無愛想にノートを見ながら答え、ここに電話してくださいと電話番号の紙切れを一枚美佐子に手渡した。
 「みさちゃん、機嫌悪いね」と私がとぼけて聞くと、
 「静かにしていて」と美佐子。
 この反応は私の予想範囲であったので気にもしないで、東急線の中に入りながら、こんな我がままな女性とうまく暮らせていくことが可能なのだろうか考える。
 しかし、彼女の後ろ姿の尻の部分を見ていて小松はまた夜の事を想像する。
 彼女の痙攣と喘ぐ顔の表情を思い出して小松は頭を横にふりながらやはり別れるのは惜しいと思う。男なんて勝手な存在だな、まるでからだだけが目的のスケベ爺だな、と自分を哀れむ気持ちも湧く。 
 年が30歳以上も離れているのに、吉永美佐子は小松とつきあってきたのである。いや、たんなる好奇心だけでは、五年もつきあうことはできない。父親を早く亡くしたことがどこか年上の男性の包容力みたいなものに憧れを強くしたのかもしれなかった。
 吉祥寺につくと、光りが街にあふれ、若者が長い足で闊歩している。古書店があり、そこに渋谷にくる前に美佐子と寄って、美佐子はリチャード・クレイダーマンの楽譜を買い、小松は琳派の画集を買ったので、そこで財布のことを聞いてみようと思った。美佐子はこの古書店で財布をなくしたのではないかという私の推測をきっぱり否定していたので、「すみません。黄色に柄のはいった二つ折りの財布ありませんでしたでしょうか」と丁寧に聞きながらも、目はガラス玉のように動かない。
 その目が定員の「ありましたよ、二時ぐらいでしたかカウンターに忘れ物がありました、黄色ですよね、レモンイエロオのような色」と言われて急に光を奪還し、声をふるわせながらありがとうと言った。
 その声のふるえに、美佐子の体のふるえをなぜか連想した。