オレ、静かなおんなの子がすきなんだ |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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ただいま、岩見沢に帰宅。
慣れたとはいえ、1時間以上通うのは、なかなかつらい。
不思議なのは、東京の時には1時間から2時間ほど通勤していたのにということです。しかも立ったまま。
それから比較すると少なくとも、のんびりと、座って通勤できるというのは北海道のサラリーマンの幸福のひとつなんでしょうね。

weather reportの 「プロセッション」
ジョー・ザビヌル
ウェイン・ショーター
オマー・ハキム
ビクター・ベイリー
ホセ・ロッシー

「プロセッション」を聞きながら、沈黙の星空を見上げ、凍り付くような空気とともに、今夜もまたはかない記憶の時間は過ぎ去っていこうとしております。

嫌なことも忘れ、傷ついたこころを癒しながら、好きな音楽をききながら静かな眠りへとみずからを誘いたいと感じております。




渡辺淳一さんは様々な批判を受けながら、こんなことを書いております。
「鈍感力」・・・簡単に書くと、どんなに実力のある作家の卵であっても、ちょっとした批評やら批判で、あっというまに自信を無くして消えてしまう作家達がたくさんいたと。

逆に、残る作家達というのは、ずぶとくて、少しぐらい才能がないと思えても書くことを止めないので次第に頭角をあらわしてくるというのである。

これはある意味で私はあたっていると思うし、特に作家だけではなくて、どんな世界でも同じことなんだろうなと思う。

小林秀雄さんは「好きこそものの上手なれ」と言う言葉の恐ろしいほどの本質を語っておられましたが、好きであれば、人からほめられようがけなされようが、好きなことを続けていくことができるものだと言うのですね。

好きということの本質はほんとうに不思議だと思いますね。

人が人を好きになるということも同じです。

愛は4年で終わるといいますが、人々は何十年も同じ人と暮らしてあきませんから。

たとえば、男性この私がどうして女が好きかというと、やはり、その髪の梳かし方ひとつにしても小さな女の子でも立派に髪を梳かすことを習慣として初めているので、様になっていますネ。
女性が鏡に向かって髪を梳かしている姿というのは、あらゆる芸術家が描いておりますが、これは女の魅力のひとつでしょう。腕をあげて一心不乱に鏡の中の自分をのぞきこみながら髪をすく。

これは男にはできない仕草のひとつでしょうね。

男はマニアックですから、たとえば下品なたとえですが、以前から不思議だったのは「下着泥棒」が女の人にはないんです。男は多いですよね。確か寺山修司さんも死ぬ少し前に下着を盗んで捕まったと記憶しております。笑い話ではあれは、具体的な女性があんまり出てくると、そのような心理にはならないと思います。抽象の世界というんですか、男にはそれがあるんです。だから三島由紀夫さんはそれを青春の特徴と描いておりますね。特に男性の不思議な世界と。抽象的なものにはまっていくんですよ男の子は。
下着泥棒が悪いことというのは道徳的に当たり前であり理性でほとんどの男性陣はその抽象を押さえております。

だから男性は具体的な女の子について考えることはあまり巧くなくて、女性一般について抽象的に考えるのが得意と言えるのでしょうネ。

そうでなければ、キャバクラがはやるはずはないでしょう。

女性は抽象は苦手だと思いますネ。

最近は少し男性化した女性も増えているらしいですが、一般的には、下着の抽象から物語を作ろうなどとは絶対に思わないし、そんなことで自分の人生を棒にふるなんていうことは女性のしっかりした「現実的な頭」からは生まれないんです。

だから女は立派な母親になれるんです。

哲学、言葉、数学、物理学、不思議なる世界、そしてまだ見ぬ「おんなの世界」。

こんな言葉もありましたね。
「青春とは○○世界を知りたいという願望である」と。

いろいろな世界があるんですよ。

宇宙があり、社会があり、解けない難問の数学の問題があり、物理の定理があり、わけのわからない「おんなの世界」がある。

そんな世界を知りたいと思っているうちが幸福なんでしょうね。

私はこんなになってもまだまだ女性の神秘を信じております。

考え方の癖にしても、男と女はまったく、違います。そこがおもしろい。

たとえば、ワットは自分の母親が死ぬときに馬でいまわの時に間に合わずに、それをずっと思い悩み、最後に馬よりも早い蒸気機関をつくったと言われております。もしもこの話が嘘であっても男の世界をあらわす巧い嘘だと思いますね。

「とうちゃんあの月とってくれ」と泣いてせがんだ息子たちは、最後には、ロケットをつくって、月の砂踏むんですよね。
これだけは女の世界ではありません。

今もしも、自分の旦那が、「俺もしも世界一周旅行をどうしてもしたいんだ」と告白されて、「やりなさいよ」と言える奥様は何%いるか。

ほとんどの奥様は「何考えているのよ。子供が大学行くんだから、そんな馬鹿なことを考えている暇あったらしっかり働いてくださいな」とくる。

そしてこれは女性の女性たる「しっかりした現実性」であり、それがあるからこそ、馬鹿な男が海で溺れずにすむわけですネ。

だけど、何割かの馬鹿な男はそれをやります。そして、その何割かの男たちの中のまた数人、たったのひとりかふたりかが、それをやりとげちゃうんですよネ。

あとの皆は死ぬか、家族がめちゃめちゃになるか、破産宣告されるか、そんなものです。

まったく、神様はうまく男と女をつくったものだと思いますね。

まったく別の生き物だからこそ、おたがいを尊重すれば、楽しい時間と人生をおくれるはずであると思います。

「コンタクト」というシネマを大好きなのですが、あの中で、主人公の科学者のカール・セーガンの投影である女性のエリー=ジュディ・フォスター=は、「こんな宇宙からの声を探し求めたって絶対に成功しないよ」という批判に対して、こんなふうに答えてましたっけ。

「わたしの人生なのよ、どう生きようが私の人生に文句を言わないで」と、<記憶がはっきりしないのでニュアンスは違うかもしれませんが>叫ぶシーンがありました。

これなどは、男性原理的な叫びであって、女性には似合わない言葉だと私は思っておりましたが、
大好きなジュディ・フォスターが、かっこよく、叫ぶシーンを見ているとやはり時代は変化しているのだなあ、と深く感じましたね。

こんな女性も素敵だなあ、と。

まちがいなく、この台詞は、カール・セーガンの心理の投影とわかっていてもかっこいいと思ってしまいましたネ。


私は最近男の子に応援歌をおくっております。
今日も旭川に行く途中で、高校生の男性がたくさんのってきて、やはり話題は女の子の話題になっており、ついつい聞き耳をたててしまい、最近の男子の意見も聞いておこうとしたのですが、ぷーと吹き出しそうにもなりました。

「オレ、静かなおんなの子がすきなんだ」とひとりの男子が言うと、
「いねえいねえ、もはや、やまとなでしこ絶滅!!!」と、もうひとりのかっこいい系の男子がちゃちゃをいれる。

 「さいきんの女はうるさいよな」こんな会話が続いている。

私は思わず、「おんなってもんは現実的でもともとおしゃべり命の生き物なんだぜ」と、会話に参加しようとする自分を必死に押さえていた。

「おしゃべりが大好きなんだけど、その現実的な女の子が、もしもほんとうに大好きな男の子ができたらば、その男の子の好きなタイプの女の子になろうと努力するようになる」

 「ほんとかよ」
 「ほんとだよ、これは経験上、言えることだネ」

 「だから、女の子は男の子がつくるんだ」

 「だけども、女の子は成長がめちゃ早いから、男の子がある意味男性になっていかないと、追い越されて馬鹿にされちゃう、そうなったら、もとのおしゃべりな現実的な女の子に逆戻りさ。だからそうならないためにも君たちは少し抽象的なことを勉強して、もっと、女の子に尊敬されるようにしたまえ」

 そんな妄想が頭の中でどんどん湧いてきて、ひとりで私は一人会話を楽しんでいた。
 気がつくと、雪の線路の中、終点の旭川についていたのだが、高校生たちはさきほどの女の子についての会話もすでに忘れて笑いながら私の前を走りさりそしてドアから大急ぎで出て行った。
 「こんどつきあってみるかな」という声を残しながら・・

 男っていいなあ。