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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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<岡田史子ガラス玉へのオマージュ 北国の恋人たちの落書き  by huruhon >

ふと見ると、22時37分。ジャッキー・マクリーンクィンテットのスイングジャーナル選定ディスクを聞きながら、ぼおーと、植草甚一やら立原正秋やら谷崎について考えていて、特に、「男性の女性の美化」について考えていた。

確かに良く考えてみると、小説に出てくるような女性は、この世にはなかなか実在はしない。していたとしても、写真で実物を見ると「あばたもえくぼ」的ないわゆるスタンダールの恋愛の結晶化があり、彼女はその作家の心の中で美しく理想的な女に結晶していることがわかる。

しかしである。

それでいいのではないか。

理想の女性がいないように、たぶん、女達だって理想のおとこはいないと嘆いているのだから。
そして、最後に見つけた自分の旦那や恋人が一番だと思っているのだ。

それはそれでいいではないでしょうかね。

立原正秋の「石榴」などは私の好きな作品だが、その主人公の女性はなかなか艶のある女性に書かれていて、男性ならば惹かれる要素をたくさん持っている。
そんなことを考えながら、久々の休日なのでいろいろなブログをまわっていると、「疲れたおっさんがコートをまといながら猫背でタバコをふかしているのはたまらなく好きだ。」という女性の言葉にぶつかった。

少し吹き出しながら、この女性の言葉について考えてみた。
アニマやアニムスという難しい言葉を使わずとも、皆、こころの中に理想の「こんなふうであってほしい異性のイメージ」を持っているのだとつくづく思ったのだ。

実際にはそんな男性が現れたとしても、何年かつきあって、金銭にだらしなく頭の悪いことがわかれば女は「あんたのみそ汁の飲み方がまったく生理的にうけつけないわ」とか言いながら、別れの言葉を吐くのである。

ただ、最初はそんなイメージで、まず人は異性に惹かれていくのだ。
これだけはどうしょうもないでしょうね。

私も自分のアニマアニムスを書くと、男はひとつのアニマしか持たないと言われているが、確かに私は昔から古本屋に黙って座っているおかっぱ頭の女の子のイメージ=つげ義春の漫画に出てくるような、あんな気が強いがじっと本を読んでいる少女のタイプにぞっこん弱かったので、やはり、アニマはあるのだろう。

そして深夜のコンビニでたったひとりでおにぎりなんかを買う群れない女性にも惹かれるなあ、なんか、ニコール・キッドマンの日本人版みたいでかっこいいと思うんですね。

昔は、ブリジット・バルドー とか ジェーン・フォンダ とか、悪女系にもやられましたね。 

 アヌーク・エメには惹かれなかったのですが、年をとると品があっていいですね。
日本では高峰秀子などがいいですね。今84歳らしいですね。素敵です。
「放浪記」でしたね。成瀬巳喜男監督が大好きです。あの時代には相当の思い入れが私はありますね。まだ生まれてもいない時代ですが。

やはり顔から言うと、特に高峰秀子の顔が大好きな形というわけでもないし、美人だから好きというわけでもないが、やはり「人=こころ=しぐさ=かもしだす雰囲気」ということでしょうね。
彼女の放浪記の文学を志す演技を見ていると涙が出てくるほどの熱演でした。

人はやはり、顔に責任を持ちながらも、人=こころ=しぐさ=かもしだす雰囲気には、気をつけましょう。





ある人が言ってました。誰だか忘れましたが。
人は少し背伸びするぐらいがちょうどいい。
それが人をのばす、と。

ちなみに、乙女の反対語は男であります。

こころの中のアニムスを失ったおばさん達が自らを男にしていく様が最近多いですね。もともとこころのなかにあるものが実現するわけですから、おとこを馬鹿にしたような心を持てば持つほどその馬鹿にした男性に近づいていくわけですしね。
男がおとこらしくなくなったのか、女が乙女心を馬鹿にし始めたのか。
そうして、男と女の仲が悪くなると、三砂ちずるさんの「オニババ化するおんなたち」になるのかもしれませんね。
まあ、男も、偉そうなことは言えませんが。最低限昔の男が男であった時代の男のイメージだけはこころのなかにとどめておきたいなあとは思っております。