東洋人の男性を連れて歩くことが先進的なハロスの女性やらセレプのファッションにもなっているとか。 |   心のサプリ (絵のある生活) 

  心のサプリ (絵のある生活) 

画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
至高体験の刻を大切に
絵のある生活 を 広めたいです !!!

雨が、極彩色のネオンにはねかえり、目をつむるとタクシーや車の騒音や巷を酔って歩きまわり傘もささずによたっている男女などをのぞくと、旭川の夜の街はいたって静かで、映画ならばこんな夜にはきっと「はやく部屋にもどらないとミー子が腹へらしてんな」とか言いながら、ミー子というのは女性ではなくて実は猫の子供なのだが、くわえタバコにロングコートにマフラのいでたちで、登場するのでしょうね。


夜のネオンは好きですね。胸がわくわくしてきますね。
特にこれから飲みに出るのでもなく、女の子と待ち合わせをするわけでもないのですが。
ただ、ただ、こうやって列車に乗るまでの時間、ふらりとここに来て書き込みするだけなんですが。

いいです。生きている実感が湧きます。
雨は好きではありませんから、こうやって自分自身を騙して良いsituationをつくるほうが楽しいではありませんか。

「雨の日にはブログを書こう」植草甚一さんなら、そんなふうに言うかもしれません。

シネマならば「ブレードランナー」デュックの傑作、「アンドロイドは羊の夢を見るか」の日本のネオンライトに揺れる雨のシーンはなにやら雨でなくてはならない、そんな気がします。
DVDを取り出して、そのシーンを見る必要はありません。私の記憶の中のその雨の中で主人公が歩くシーンがカッコよく残っていれば。

でも可哀想です、人以上に精巧で緻密に作られている人のこころのようなものまで持っているアンドロイド娘が、破壊されるまでの、寿命について苦しむというのは。想像してしまうのは。

三島由紀夫の「雨の中の噴水」もこんな雨の日は思い出しますね。
初めて女の子を「ふってやれ」と女の子に「別れの言葉」をきっぱり言う「男」らしさにあこがれる男の子が、その少女に最後に「何かいった?」と、言われて愕然としてしまうフランスのコントのような可愛い小品。

キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」の、後半の急激なギリシャ悲劇を想起させるような主人公の落下、非人間的な警察での拷問の結果大好きなベートーベンの第九を聞くと自殺したくなるという彼が、以前反体制作家の妻をレイプした家に助けられるのは良いが、暖かい風呂の気持ちよさの中で、ついに歌ってしまう歌は、「雨に歌えば」ではなかったでしょうか。

それが結果、レイプされたときに彼が口ずさんでいたその歌で、作家ははっと気がつき、そして復讐をはじめるのだが。

ジーン・ケリーだったでしょうかね。

今は邦画が頑張っているが、ヨーロッパやアメリカの映画はなんだかんだいっても、「理性」「知識」「合理」「論理」「起承転結」「ヒューマニズム」を描かせれば、東洋なんかは絶対かなわない。
まさにロゴスの世界であり、私はそんな昔の映画の名作傑作に若いころに接することができて幸せだと思っています。

しかしながら。

邦画のすごいところは、物語の展開などではなくて、その「沈黙」その「ぼんやり」その「空気」その「雰囲気」その「間」そんなところに日本映画の、真骨頂があると私は見ておりますね。

それが最近世界でもとみに評価のあがっている邦画の良さだと思っています。

もう、人間至上主義のヒューマニズムの限界を知って、神秘的な自然のたたずまいやら、人の意識や意図を超えた、無意識のぼおーとした休息とか、個人を超えた「無私」の謙虚さとか、「死」への自然なる服従とか、そんなものへの共感が増えてきたのかもしれません。

東京でも旭川でも札幌でも、日本男児にロシア娘やヨーロッパ娘やアメリカ娘が手をつないで歩いている図というのは、経済力だけの傾向ではないと思っております。

聞いた話では、東洋人の男性を連れて歩くことが先進的なハロスの女性やらセレプのファッションにもなっているとか。