レッド・ツェッペリンと X japan。 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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Xジャパンのこのビデオ見ていて、涙が出た。
千葉から出てきた、田舎者の彼らの成功までのプロセスに関しては何も言う必要はない。
運命的な必然があり、死があり、そして、才能がある。

私の時代の年齢から言えば、既成の概念をぶっ飛ばしてくれたのは、ほとんどアメリカのグルーブであり、
それらは、天才的な、ジャニス・ジョプリンであり、オーチス・レディングであり、ジミー・ヘンドリックスであり、ピンク・フロイドであり、クリアーデンス、クリアウォーターリバイバルであり、テン・イヤーズ・アフターであり、ジョー・コッカーであり、レッド・ツェッベリンである。

私も最初は向こうが大人で日本のロックバンドは子供だな、そんな感じを持っていた。



しかしながら。
このXジャバンの、エンドレスレインには、不可思議な東洋の日本的な、お稚児的な、バイオセクシャルな、アンドロギュヌスの、歌舞伎的な、美的な繊細さの極致の、レッド・ツェッペリンのおおらかさと大胆とは違う、どこか薔薇やクレマチスの静につながる美があるのだ。
ほんとうにこのライブで私は日本について考えていた。
観客の反応。声。楽器の性能。動き。仕掛け。皆、和だと、発見した。
なんだ、ここには、日本があるじゃないか。
何も、能だ、歌舞伎だ、茶道だ、ということはない。
ここには美に対する、はかないものに対する、
まっすぐな、庶民のピュアな心持ちがあるではないか。
美の伝統である、「あわれ」が見事に、凝縮してるではないか。

歌舞伎だって、江戸時代、今で言えばこんなXジャパンのようなハンサムな歌舞伎役者に
女子供、人妻が群がって、弁当を食べながら応援したのだから。
そして、奥さん連中には、エネルギーをそこで発散してもらって、旦那集は、吉原に
遊びにいったもんだった。

花火があり、寿司食いねえがあり、笑いがあり、涙があり、人々は浮き世を全うしたのである。

今みたいに、何かをすれば、すぐに「セクハラだ」「告訴だ」「臭い」そんな、
短絡的な、頭でっかちの意見もなく、人々は、生活の細部=ディテールに生きていたのだ。



私が今一番興味のあるのは「和」だ。
このグループは、千葉から出てきていろいろ不良の時期もあったのだろうが、ピアノについても、雰囲気づくりについても、作品に対する細やかな仕掛けについても、私ならば100点をつける。

何も半裸で歌うこともなかろうに、とか、いろいろ批判はあるかもしれないが、そこがいいのである。
ボーイズライフのビジュアルロック。しかも、音がいい。テクニックではなくて、彼なりの音があるではないか。ここが重要。

修羅乗り越えてます。

私は大好きなバンドである。

レッド・ツェッペリンと X japan。


涙が出ない音楽など、私はいらない。
言い過ぎか。


よおく、見てももらいたい。
個人主義のヨーロッパやアメリカのバンドはなかなか観客と一体になれないのだ。
そこには工夫と努力と薬がいる。
それに比較すると、日本の特に女性は、何も必要とせずに、源氏物語の光源氏に同化するかごとく、
一体になっちまう。
その差がおもしろく、また、国民性なんだなと思う。