「おにぃちゃま、ありがとうございました」   三島由紀夫 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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画家KIYOTOの病的記録・備忘録ブログ
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朝から、ちょっとした用事でミニ旅。
11時ぐらいに家にもどる。
ブログの活気は楽しい。参加させていただいて嬉しく思う。
昼から自分の傑作トマト超辛スパをつくる。
これはけっこう評判が良いスパ。
赤ワインをいただき、麦酒を村上春樹よろしく飲んでいたら、ダウン。

4時過ぎに起きる。
絵を描き、アイデアを表にして、本を読み、今日はキース・ジャレットの「staircase」を聞く。
レコードなので音はいい。

aisekaiさんからの質問についてずーと考えていた。
三島の妹。
私にも妹はいるのだが、妹とは、異性であって親近者である。
可愛いようでうるさい存在でもある。

しかしながら三島にとっては、聖心に通っている彼女を、こころから愛していたような感じがする。
17才の時に、たしかチフスかなにかで死ぬのだが、三島はこう記している。
「彼女は無意識でずっとベッドに寝ていたが、意識のない状態でありながら、たしかに死の直前にこう言った。」
「おにぃちゃま、ありがとうございました」

涙しかでないです。

彼女をこよなく愛していた彼の悲しみを思うと。

こんな言葉で、無意識に、御礼を言われる妹との「関係」でありつづけたことが、三島の彼の人生は、彼の「優しさ」を裏付けるものである。

もともと、健康で人から愛される常識人ならば、文学なんかやらないのである。

こころにこだわり、こころに病があり、現状に対してなんとかしたいという、気持ちがあるから文学をこころざすのである。

そういう意味では、アメリカの文学のように一発あててアメリカンドリームというようなことは昔の日本文学にはなかったと思う。
<最近はそればかり>

良心が文学であり、文学が良心である、そういう時代が確かに日本にあったのである。
この場合の「良心」とは、まちがっても、「道徳心」ではないので、あしからず。
よく、評論を読むと、三島の青春時代の、戦争の敗北・妹の死・ということを書いてあるが、評論家は所詮評論家である。

小林秀雄が三島が自決した時に言った言葉。
「彼も自分のこころが透明であったわけはない」
これがすべてだ。

皆、現代人は、こころが「読める」と思っている。過信だ。

えせ心理学の横行で、皆、よっぱらっている。
安酒は、二日酔いするのである。
その経験をたっぷりした小林秀雄は、心理学の落とし穴をつくのである。

人は見た目である。

三島も小林もこんなふうなことを言う。

これはしかしながら、今はやりの、「見た目がすべて」という馬鹿みたいな心理学の著作のことをさすのではない。

「姿」と彼らは言う。

「見た目」つまり、ファッションとか、口からでるおしゃべりをさすのではない。

「姿」、全体のイメージ・全体のオーラをさすのだと私は理解している。2008.1.16.