ヒューマンデザインで、その取り扱いがとても重要な、

マインド(思考)は、表面的なものだといわれている。


表面的ということは、外側と内側を結ぶ位置にあるということ。

そして内側には、とても大切な、自分の本質(魂)がある。


ヒューマンデザインでは、

マインド(思考)で大切なことを決めないように提唱しているが、

それは、

表面的なマインドで決断すると、内側の自分の本当の声に
耳を貸さなくなるから。


表面的なところで、答えを出さないで、
自分の中の、深いところから発せられる
内なる声に耳を傾けることが大切だから。


 

「ありのままの自分」で生きることを勧めした時、

「そんなこと、できるわけない!」

といわれることがよくある。


「ありのままに、生きたいように生きられるなら、
今やってる仕事は、やりたくないし、かといって、
今の仕事を辞めたら、明日から、生活していけない!」


「ありのままに生きるなら、今の家族とは一緒に
暮らせないし、かといって、家を飛び出しても、
明日から生活していけない!」


「・・・・・」


というふうに。


これは、いきなり今日から、100%ありのままで生きる
自分になろうとしたときに起こりがちなことで、
生身の人間としては、難しいこと。


「論語」には、

15歳で学問に志し、

30歳で人生の志を立て、

40歳で迷いがなくなり、

50歳で自分の天命を知って、、、、、

70歳で(ようやく)、心のままに生きても、
社会のルールに反することはしなくなる。


と書かれている。


今の私たちは、こんなに長くはかからないとしても、
細胞レベルで、自然にありのままで生きて、
社会や環境と調和するためには、

やはりある程度の時間は必要。


それまでは、

どれくらい「ありのままの自分」でいることに
妥協せずに生きられたか?

ということを自己採点して、1%でも多く、
「ありのまま」で生きられる工夫をしていくこと。


そして、そのパーセンテージを一気に上げられる
機会が来た時に、着実にそれを選び取れるように、
自分の決断力を磨いておくことが大切。


そういう意識で過ごしていると、環境を大きく
変えなくても、意外と足元にその答えがあるかも、、、、

「美女と野獣」という物語のモチーフの一つは、

マイノリティへの不安と恐怖、

異質さへの不安と恐怖、

であり、

「マイノリティ」や「異質さ」を、

野獣が象徴している。


物語では、野獣の存在を知った村人たちが、

野獣がいかに良くない存在であるかを主張し、

野獣を殺すべきであるという結論に達する。


野獣の存在を否定する、圧倒的多数の村人と、

野獣を愛しい存在だと認める主人公ベル。


そこに切なさを感じる人は誰でも、

自分の中にある「野獣」の部分に、

どこかで気づいているのだろう。


自分の中の「野獣」の部分。

「異質さ」

「わがままさ」

「自分本位さ」

「社会生活を難しくしている部分」

「・・・・・」


自分の中の野獣の部分を、自分自身が村人になって、
攻撃している人が多い。


まずは自分が、ベルになろう。

自分の中の「野獣」を愛しい存在だと認めてあげよう。


そうすれば、いつか正しい人が現れ、

自分らしさを認識してくれるだろうから、、、



 

ヒューマンデザインでは、「均質化」という言葉がよく出てくる。


全員が、

同じように考えて、

同じことをいいと思い、

同じことを悪いことだと思い、

同じことを「幸せ」の条件だとみなし、

同じことを、できて当たり前のことだと考え、

同じことを、全員ができるようになるまで努力すべきことだとみなす。


個人主義が徹底されているように思われるアメリカでも、
「均質化」はとても根の深い洗脳(条件付け)だといわれていて、

ヒューマンデザインを学び、実践する上でも、
前に大きく立ちはだかっている。


協調性を重んじ、世間や人の目を気にする日本では、
その圧力はもっとすごいだろう。


カレーやシチューを煮込んでいくと、玉ねぎはもちろん、
ニンジンやジャガイモの形もだんだん崩れてきて、
やがて一様なスープになってしまう、そんな感じだ。


私も今でも頻繁に、均質化の圧力によって、
自分本来のあり方と違う考えや行動をとらされていることに
気づかされる。

均質化への対応を難しくさせる大きな原因として、
「均質化」で言われていることの一つ一つは、おそらく、
70%から80%以上の人にとって、正しいということがある。



例えば、「挨拶は、コミュニケーションの基本だ」という
考え方をみてみると、

恐らく、90%以上の人は、この考えに同意するだろうし、
実際に、挨拶することで、人との距離が縮まったり、
会話や仕事がスムーズになることを実感していると思う。

人見知りが強く、挨拶が苦手だった人が、挨拶できるようになって、
その効果を実感することもあるかもしれない。

一方で、

「あいつは、ろくに挨拶もできない」

といわれることは、人として、大人として、社会人として
ダメな奴だという烙印を押されてしまう。


恐らく、苦手な人でも、頑張って練習すれば、「ほとんど」の
人が挨拶できるようになるかもしれない。


しかしそれは、「ほとんど」であって、「すべて」ではない。


ヒューマンデザインは、「違い」の科学であり、
人は全員違うということを、徹底的に学んでいく。


どんなに頑張っても、どうしても挨拶することができない、
という人も必ずいる。

そして、その人にも、生まれてきた役割、使命があり、
そのための才能がある。


均質化の力は強い。

周りの人と同じだと、安心しやすい。


常に自己と向き合い、

「人は違うのが当たり前」

「私はその考えには共感できない」

という気持ちを大切にすることが大事なのです。

 

多くの人々が不満を抱えながら生きる

社会のように思える。

 

生きていることに心からの満足を

感じることも少なく、

 

どこかで妥協して生きる社会。

 

 

「勝つ人がいれば負ける人がいるように、

 

満足な人がいれば、不満な人もいるし、

 

幸せな人がいれば、不幸な人がいることも

仕方がない。

 

すべては、相対的なものだから、、、」

 

という考えもあるが、

 

 

それでもやはり、

 

創設者ラーが語るような、

 

「みんなが自分のデザインを生きるようになれば、

 

現在ある病気のほとんどはなくなり、

世界中で飢えて苦しむ人もいなくなり、

 

みんなが満足感と豊かさを感じて暮らせるようになる」

 

 

という、理想の社会をあきらめられない。

 

 

自分で言うのもなんだが、とても悲観的で、

否定的な性格の持ち主である私から見ても、

 

ヒューマンデザインの哲学には、

 

「もしかしたら、その理想の社会は実現可能かもしれない」

 

と思わせる何かがある。

 

 

とにかく、、、

 

うまくいえないが、

 

「多くの人が不満を抱えて生きる社会」

 

の存在は、やはり許せないということ。