◇本当の「無音」という状態は経験できない
【無響室のイメージ映像】
音響機器メーカーや工学系の大学に行くと「無響室」(上写真)という壁・床・天井に音波を吸収する素材が施され、室内で音が反響しないように設計された部屋があります。主に、正しい音響測定をするために使われる部屋なのですが、外界と遮断されているため、かなり高い遮音性能も有するこの部屋の内部は、無音に近い状態です。でも呼吸を止めて耳を澄ませても僅かに音が聞こえてきます。それは、自分の身体の内部から発せられる血流音です。私のようにストレス性の耳鳴りでザーザーと血流音が聞こえてくることもありますが、医療関係者の方でも無い限り、一般の方で血流音を聴いたことがある方はまずいないでしょう。物理的に全く音がしないという状況はなかなか作り出せないのです。
では、ちょっと実験をしてみましょう。試しに指を耳の穴に差し込んでみてください。どんな音が聞こえますか。私は右耳から「キーン」という耳鳴りが聞こえます。指関節の音でしょうかかすかに「コリコリ」という音もたまに聞こえてきます。かかり付けのお医者さんから聞いた話では、聴覚は空気を伝わって鼓膜が振動することで得られる電気信号を脳に伝えて音として認識するだけでなく、鼓膜は振動していないのに脳が勝手に音と認識することもあるのだそうです。例えば、加齢や肩凝りによる耳鳴り、ストレス性の耳鳴りというのがそれに該当します。このように、私たちは脳の仕組みからしても、全く音がしない「無音」という状態は経験しようがないのです。
(※それより何より、耳鳴りが酷い場合はまずは病院へ!)
◇「静寂」には音が必要!?
電車の中ではイヤホンをした若者をよく見かけます。一体何を聴いているのでしょうか。論文検索サイトCiNiiで調べてみたのですが、イヤホンの構造に関する論文はヒットするのですが、イヤホンで何を聴いているかに関する調査研究は見つけることが出来ませんでした。そんな中で、武蔵大学の学生が編集部員を務める『Musashi Web Magazine』(2019年10月14日号)の中で、イヤホンの装着率の調査が出ていました。ナント電車通学生のト86%(n=100)がイヤホンを装着し、音楽や英会話を聴いているというのです。中にはゲームをしたりスマホで漫画を読んだりしているという例もありますので、純粋にイヤホンとしてしようしているかどうかは定かではありません。しかし、私のようにオーディオブックを聴いている学生もいるとのことで、電車の騒音の中で、音楽や音声番組を聴くという行為は、
「音を以て音を制す」
とでも言えるのではないでしょうか。しかも、最近ではイヤホンも進化し、ワイヤレスタイプやノイズキャンセリング機能付きイヤホンも登場しています。逆位相の音をイヤホンに流し騒音を打ち消すことで、耳に負担がかからない音量で好みの音楽や番組を聴く・・・なんとも贅沢なひとときではありませんか。例えるなら、飛行機のエコノミークラスからビジネスクラスになったくらいの感じ、軽自動車からからレクサスになったくらいの贅沢な「静寂」という音環境が手に入ります。ノイズキャンセリング機能付きイヤホンはまさに、「音を以て音を制す」という装置の代表格と言えるでしょう。周囲の騒音が驚くほど気にならなくなります。
私のように普段から音・音楽に関する仕事をしていると、時折「音が無い環境」を求めたくなる時があります。聴く事ばかりに傾注しすぎて、聴覚を休めたいとでも言ったらいいでしょうか。トロンボーン奏者で勤務校でオーケストラを立ち上げた元高校教員のI先生も、
「耳を休めたいから、休憩時間は楽器の音を出さないで~」
とよく言っておられました。今思えば、あの言葉、なるほどなぁと思う言葉の一つです。I先生は、音が無い環境ではなく、音が気にならない環境を求めていたのだと思います。(この話題は『今思えばシリーズ』でも後日取り上げます)
「静寂」については、『広辞苑第7版』によれば、「静かで寂しいこと。物音もせず、しんとしていること。」とあります。また、『大辞林第4版』によれば、「静かなこと。ひっそりとしていること。また、そのさま」とあります。どちらも、「静かであること」が述べられていますが、必ずしも音が物理的にまったく測定できない状態を述べているわけではないことがわかります。つまり、「静寂」とは必ずしも音がしないということではなく、「静かであると感じる」という感覚的な側面からの状況を語っているのです。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
『奥の細道』で松尾芭蕉が元禄2年5月27日(1689年7月13日)に現在の山形市の立石寺で詠んだとされる発句です。ここで詠われている蝉は、斎藤茂吉が発端となって議論が展開され、現在ではこの句が詠まれた時期からニイニイゼミであるという結論が導き出されています。この蝉の声が何ともユニークです。「ジー」とも「ギー」とも文字で表すことが出来るこの鳴き声は、私には耳鳴りがしているのかと感じられるくらいの切れ目ない鳴き声です。一匹や二匹ではこうは聞こえないでしょう。沢山のニイニイゼミが一斉に鳴いているからこそ、耳鳴りのような切れ目ない音に聞こえるのです。このような音風景を「閑かさや」と詠った松尾芭蕉の感覚は、やはり静寂は感覚的な側面からの捉え方であることを再認識させてくれます。ただ、西欧人の耳にはニイニイゼミのような虫の声は、単なるノイズ(騒音)としてしか認識されないようです。このことは、今から40年以上前にすでに角田忠信によって指摘されていました。
◇「静寂」は心が創り出す音風景
角田忠信著『日本人の脳』(大修館書店 1978年)では、次のように述べられています。
「西欧人は虫や動物の声、機械の音などを音楽脳で処理する(言葉ではなくノイズのように受け取る)のに対して、日本人は言語脳(意味のあるもの)で処理する。(p.83-p.85を筆者が要約)」
虫の声や動物の鳴き声を左脳(言語)脳優位で聴くか、右脳(音楽)脳優位で聴くかの議論は私は専門外なので知ったかぶりのことは言えませんが、少なくとも日本人と西欧人では感じ方が違うということは確かなようです。「静寂」の表現に芭蕉は蝉の声を取り上げました。恐らく西欧人だけでなく、スペクトラムアナライザ(周波数成分を周波数帯域ごとに分析し、その結果を強度の形で表示する装置)という機器で分析しても、芭蕉が聴いたニイニイゼミの鳴き声は騒音に匹敵するほどの音の大きさだったことでしょう。(下記YouTube参照)
【豊田市公式YouTubeチャネルからの引用】
静かどころか、現代人なら大騒音と感じる方もいるくらいの蝉の声だったと考えられます。それを敢えて「閑かさ」と表現としたところに、「静寂」とは感覚的な側面から心が創る音風景なのだという考えに私は至ります。決して音がするとかしないとかそういうことではないのです。「無音」は物理的に測定可能です。しかし、「静寂」は、測定器では測れないのです。(勿論、測定因子を増やせば可能かもしれませんが・・・)
「静寂」を測る装置は、その人自身の感性
人それぞれが感じる音風景は元来もっと多岐多様だったと思います。しかし今、私たちはマスメディアやYouTube等のSNSの台頭によって、元来多様性に満ちていた音風景が画一化された認識に近づいているように思います。これはヒューマンビートボックスの調査をしていても感じ始めていたことです。「自由だ」「決まり事がない」と言っておきながら、実は画一化へ向かって進んでいる。その画一化路線から外れたビートボクサーは、本当の意味でのストリート文化性を有する人たちだと思います。
「静寂」は様々な因子を詳細に分析すれば、音風景などと言う情緒的な言葉で語らなくとも客観的に語ることが可能だろうと思います。しかし、私は敢えて音風景という言葉で静寂を語ることが、その人それぞれの感性を尊重し、自由に楽しく小さな喜びを感じながら音に触れられることに繋がると考えています。
「静寂」を語る音風景、蝉の他にはどんな音があるでしょう。考えるだけで楽しくなりませんか。みなさんも「静寂」を語る音風景、是非お聞かせください。近日中に、北海道新聞の夕刊コラム『魚眼図』でも「冬から春への音風景」と題して、コラムが掲載されます。併せてお楽しみください。
※このブログは、『ボイパを論考する』の筆者である杉村一馬氏との共通テーマ「静寂」「間」に基づいて企画構成しました。
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ボイパのKAZZさんにお世話になっておりますので、ご紹介します
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