長編小説「妖狩」~序章~ | 春風ヒロの短編小説劇場

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春風ヒロが執筆した短編小説を掲載しています。

 広い道場に、少年と初老の男性が二間を隔て、向き合って立っていた。
 二人とも剣道着に身を包み、少年のほうは赤銅色の木刀を携えている。
「……まずは無心。剣を正眼に構え、息吹を整えなさい。目指すのは明鏡止水です」
 明鏡止水。鏡のように明瞭で穢れがなく、澄み切り、さざめき一つない水のような状態。
 現代の剣道において、目指すべき境地とされている。
「はい、先生」
 師匠の言葉に少年は短く返事をすると、腰に携えた木刀を構えた。左手の小指を柄頭に巻き締め、薬指、中指の順に柄を握って木刀を支え、親指と人差し指は柄を軽く挟む程度に回す。右手は鍔元を柔らかく握り、剣先は正対する敵の喉元を狙うように真っ直ぐ突き出す。
「大切なのは気組です。動の気と、静の気のバランスを保ちなさい。敵は、こちらの恐怖を餌にします。どんな相手であっても、何があっても、決して呑まれることなく、心を平らかに保つこと。剣先で敵を圧するところから勝負は始まっているのです」
「はい」
「では、始めますよ」
 初老の男性は懐から三枚の紙札を取り出し、ふっと息を吹きかけると宙に投げ上げた。ひらひらと舞う紙札は、見る間に真っ白な蝶へと姿を変え、宙空を音もなく飛び始める。
 式鬼。特殊な儀式を施した紙札に、仮初めの命を吹き込んで使役する呪術である。
 少年は剣先を宙空に留めつつ、目を大きく見開いて飛び回る蝶の動きを捉えようとする。
「目だけに頼るのではなく、全身で動きを感じ取るのです」
 そうは言っても、目の前を飛ぶ蝶を捉えようと思えば、その動きに目が吸い寄せられるのは無理のないことだった。少年は一羽の蝶に向かってすり足で間合いを詰めつつ木刀を振り上げ、袈裟掛けに斬り下ろした。しかし蝶は剣先の巻き起こす風に乗ってフワリと舞い上がるだけで、依然として飛び続けている。
 体を切り返して向き直ろうとした瞬間、別の蝶が少年の背中に止まった。途端に「パァン!」と乾いた音が響き、少年は床に倒れ伏す。木刀か竹刀で背中を直に叩かれたような衝撃が走ったのだ。
「痛っ!」
 強烈な痛みのために涙がにじむ。それだけではない。背中を打たれた衝撃で肺の中の空気が絞り出されたため、息をすることすらままならなくなっていた。
「ブレス(息吹)! 気を整えなさい!」
 師匠の声が響く。頭上をひらひらと飛び回る蝶に触れないよう気をつけながら体を起こすと、少年は無理やり小刻みに息を吸い込み、吐き出すことを繰り返して呼吸を整えた。
「痛みに気を取られてはいけません。程度は加減してあります。妖の攻撃は、こんなものではありませんよ」
(……そんなこと、分かっている!)
 少年は激痛をこらえながら、再び蝶に向けて木刀を構え直した。
 痛いのは嫌だ。
 だけど、無力であるがために、自分の命が、自分の大切な人の命が、蹂躙されるのはもっと嫌だった。
 あの時のように、為す術もなく、恐怖におののきながら、ただ殺されるのを待つのはもっと嫌だった。
(あんな思いは、二度としたくない!)
 少年の脳裏に浮かんでいたのは、父親が、母親が、友人が、人ならざるモノたちの手によってボロギレのように引き裂かれ、食い千切られる映像だった。
 腹の底から込み上げてきた怒りで、痛みを抑え込む。
 しかし、怒りに囚われてはいけない。怒りは視野を狭め、剣気を散らしてしまう。
 木刀を握っているのではない。構えた腕の延長に、木刀があるのだ。全身を巡る気の流れを感じ取れ。
 自分に言い聞かせながら呼吸を鎮める。
 少年がいまイメージしているのは、波一つない水面だった。
 波一つない水面に小石を落とせば、波紋が同心円状に広がっていく。そして、水面に異物が浮かんでいれば、波紋が乱れ、返ってくる。同様に、いま自分が立っている空間に気を放ち、共鳴させることで、空気の揺らめきや温度の変化など、ごくわずかな変化が視える――あるいは、感じ取れるようになる。以前、そう教えられたことを、少年は思い出していた。
 肌に、さざ波のような気配が伝わってくる。自分の周囲を飛び回る式鬼の動きが、おぼろげながら視えてきたのか。
 ただやみくもに木刀を叩きつけても、式鬼は剣の風圧に流れてしまい、斬ることができない。
(だからこそ――)
 体内の気を木刀に集約させ、その力で式鬼の動きの根源となっている霊力を断つ。
 少年はすり足で前進すると、木刀を柔らかく振りかぶり、斬り下ろした。刃の軌道上に、一羽の蝶がいる。木刀が蝶に当たる瞬間、手の内を一気に締め込み刃先を加速させる。
 パシッと乾いた音が響き、蝶が叩き落とされた。次の瞬間、少年は身をひるがえし、体の正面に木刀を立てた。死角から接近していた別の蝶が木刀に当たり、弾き返される。そのまま木刀を八双に取り、袈裟掛けに斬り下ろし、すかさず逆袈裟に斬り上げる。乾いた音が立て続けに響き、二羽の蝶がまとめて道場の床に落ちた。
 少年はしばらく残心を取っていたが、肌に触れる式鬼の気配が途絶えていることを確認し、ゆっくりと木刀を腰に戻した。
「よくできました。短時間でよくここまで『水鏡』を発揮できましたね。その調子で技を練っていきましょう。いずれ蜻蛉、そして蝿へと段階を上げていきます。実戦に備えて、普段から練気の鍛錬を絶やさないように」
「はい、先生」
 少年は師匠に深々と頭を下げた。

「アキラの調子はどうでしたか」
 社務所の奥にある一室。この部屋の主であり、隠神神社の代表宮司でもある草壁晃治は尋ねた。

 壁一面に本棚が並び、神道や仏教諸宗派、修験道、陰陽道、古武術諸流派の古書籍などがぎっしりと収められている。知らない人が見れば、ここが宮司の執務室ではなく、大学教授の研究室のようにも見えたことだろう。
「『水鏡』の基礎をほぼ会得しつつあります。このままいけば、早晩にも蝶を済ませ、蜻蛉、蝿も了えることになりましょう」
 答えたのは、先ほどまで道場で少年を指導していた初老の男性だった。
 水鏡――自分の心を水鏡と為して敵の姿を映し出し、その動きに応じて技を繰り出す、隠神(おんがみ)流における奥義の一つである。通常であれば十数年の修行を経てようやくたどり着ける境地であって、入門して数年の少年が簡単に習得できるものではない。蝶、蜻蛉、蝿とは、鍛錬の際に用いる式鬼の形態であり、段階が進むにつれて動きも早く、複雑なものになる。まず一羽の蝶から始め、最大で十羽まで数を増やす。蜻蛉、蝿も同様だ。
 そうした鍛錬は、すべて人ならざるモノとの戦いを想定してのものだった。
「草壁先生……。アキラの上達度合いは、飛び抜けていると言わざるを得ません。まだ十二歳でここまでできるようになるのは、はっきり言って異常です。いくら『あの事件』の生き残りとはいえ……」
「だからですよ。あの子にとって、命ある限り『あの事件』は付きまとう。妖とも、穏(オヌ)とも向き合い続けなければならない。背負っているものが大きすぎるのです」
「……酷な話ですね」
「岸野さん。アキラを鍛えてやってください。あの子が背負っている重荷に負けない、強靭な芯を持てるように」
「分かっておりますとも。この岸野、持てる技も力も全て注ぎ込んでみせます」
 岸野は草壁に向かって両手を付き、深々と頭を下げた。
 そのとき、二人の耳に滑らかなピアノの旋律が聞こえてきた。
 アキラが弾いているのだ。
 この神社の建物は、広い境内地によって周辺の住宅から隔絶されている。時刻は既に深夜に近づいていたが、この音色を耳にするのは神社内にいる数名以外にいなかった。
 曲名はない。アキラにとって大切なのは、どのような演奏をするかではなく、自分の心の中にわだかまる形容しがたい感情を、鍵盤を叩くことで表現し、発散することだった。だから演奏する曲は常に即興であり、時にはモーツァルトのように甘美だったかと思うと、時にはベートーヴェンのように重厚な響きを、また時にはショパンのように華麗な音色を作りだした。
「毎日のことですが、まったくの独習でよくあれだけ弾けるものですね。きちんとした講師に学べば、ひとかどのピアニストとして生計を立てることも十分できたでしょうに……」
 岸野がため息交じりに言ったが、草壁は無言のまま、アキラのピアノに聴き入っていた。
 窓の外に広がる闇は、底無しに暗く淀んでいる。それがアキラの行く末を示しているように思えるのだった。


本作は某コミュニティサイト内で投稿されたお題に基づいて執筆したものです。
本作のお題は「先生、ブレス(息)、共鳴」でした。なお、本作は10年以上前から構想を練っていたものですが、作品は現在未公開です。本作に関する質問やお問い合わせには、お答えできかねる場合がありますので、悪しからずご了承ください。
なお、本作の関連作品は以下の通りです。

「オニの慟哭」:http://ameblo.jp/huebito/entry-11105663619.html

「妖狩 最終話」:https://ameblo.jp/huebito/entry-11111225626.html