大学で宗教を専門的に学んでいる私としては見逃せない問題である。
この一件を機に、我々は改めて宗教に対して考えなければならないだろう。
まず、彼らが何故紛争地域を訪れていたか。
それに対して賛否両論がある。
何故危険を承知で行った人に2億ドルも支払うのか、その2億ドルがあればもっと救える命があるのではないか。
そのような論議については、今回詳述は避ける。
本論ではそれは論旨ではない。
そうではなくて、今回の事件で我々がどのように今後宗教と向き合っていくかである。
ISISに関しては北大の学生が加入しようとした事が記憶に新しい出来事である。
彼らはどのようにして世界中から若者をリクルートしてくるのか。
それは動画サイトを駆使したプロパガンダである。
彼らは映像を巧みに利用し、我々観ている者に並々ならぬ衝撃・影響を与える。
虜にしてしまう術を身に付けている。
劇的に変わる場面展開や、矢継ぎ早に起こる出来事はキャッチーで、インパクトがある。
彼らはイスラム過激派だといわれるが、私には神(the God)の名を謳った暴力集団にしか見えない。
しかし、彼らは「信仰」があるからこそ人命を奪うことが聖戦(jihad、この聖戦という訳には違和感を拭えない)となり得るのである。
日本人にはこの感覚が分からないだろう。
「信じる」ことで、全てを可能にする彼らの考えが理解しがたい。
「信仰」のない者にとって、「信仰」の持つ力を理解することは不可能に近い。
だからこそ我々は宗教に対し、無関心という名の拒否反応を示す。
分からないことには近づかない。
何時までそのような逃避を続けることができるだろうか。
特に我々世代の若者は宗教を嘲笑の対象とする。
最近でいえば、幸福の科学の大学設立に対するネットの反応が顕著な例だろう。
我々が人の信仰を馬鹿にする権利は全くない。
マイノリティーだからと、追いやることもしてはならない。
確かに20年前、ある宗教団体がテロを起こしたことによる悪いイメージもあるだろう。
しかし、無宗教を謳う人々も宗教紛いのものを楽しんでいることは周知の事実である。
例えば血液型性格判断や、星座占いなどが挙げられるが、科学的になんの根拠もないそれらの情報を、人々は真面目に「信じる」のである。
それらは人を殺す力は持ち合わせていないが、「信じる」という行為において何か違いがあるだろうか。
この様な言い方をすると語弊があるかもしれないが、人は何かしら「信じて」生きている。
そのベクトルが違うことを認めないということは、無関心でなく、否定しているに等しい。
我々はいつまでも「分からない」、「関係ない」という態度を取り続けていくのだろうか。
理解できずとも、それを知り、学ぶことが大切なのだ。
彼らが何を主張し、何を目指しているのか。
彼らは実在し、生きている。
現実から目を背けることは、我々を死に導きうることを、決して忘れてはならない。