専業主婦の母と一日中顔を突き合わせていたのと違って、
深夜になるまで帰らない、丸一日家に帰らないことも有る父と
ただ物理的に離れていたというだけで、勝手に父を私の味方だと、思いたかった。
でも違ったんだ。
私がシビアな現実を受け入れられず、弱さ卑怯さ怠惰から、
現実逃避したいあまり、自己を、現実の父と母を受け入れられず、拒否し、否定し、
都合のいい理想を押し付け、捻じ曲げ、認めることを拒否して、ただ、
逃げ惑っていただけだ。
でも現実を直視して、自他の区別をつけて一線を引き、突き放しながら認め受け入れること、と、
自意識さえなくなるほど、同化、一体化して、彼らのテンションに飲み込まれることは、
見定め難いけど、違う。
親と見紛うばかりの言動をする兄を見ていて、その紙一重の、
けれど、空恐ろしくかけ離れた、「違う」の深遠の深さにぞっとする。
私は、どこまでが私で、どこまでが、私じゃない?
どこまでが、私の意志でしてることだといえて、
どこまでが、丸々意思を親兄弟、家族のそれと摩り替わっていると、いえるのか?
紙一重の、意思、私と、わたしでないものの、同一的酷似の深遠。
私は、わたしだ、とさえ言えない、記憶さえ捏造され、
誰かのシナリオ、フィクションで切り貼りされる、人間の魂の脆さの深遠。
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この中にうずくまる憎悪の黒い蛇が、私の中に入って、それが私そのものになったときのことを覚えてる。
5歳だった。
家中に、巨大な黒い蛇がのた打ち回っていた。
父が、父一人分くらいある、黒い蛇に絡みつかれていた。
私は怯えた。
恐怖に対処する私の方法が、恐怖そのものに同化することだった。
父の黒い蛇に怯えた瞬間、父の蛇は私の中に入ってきた。
そのときから、父の黒い蛇は、ずっと私と一緒にいる。
違う、其の蛇こそが、私がいた場所を押しのけて、私になった。
何処から来たのかも、何処へ行くのかもわからない、名前も持たない、
其の存在理由もない、存在目的もない、ただ憎悪のために憎悪し、破壊のために破壊し、
痛みを肥やしに、全てを憎悪し破壊することだけがエネルギーの其の黒いヘビが、
私の声、私の言葉、私の手、私の足、私の胃、私の脳、私になった。
其のヘビが私を食い破るのを感じた。
時々、私を食い破って、新生児のように爆発的誕生をしそうな感じがした。
・・・
後で話を聞くと、家の中に、父と母に、巨大な憎悪の黒い蛇がのたうち回っていた時期、
父の父、脳卒中で倒れた祖父が入院した長野の代表的な病院で、
患者虐待が行われ、祖父にもその痕跡をはっきりと認められ、
そのことで、父と母、もともと関係が悪かった父方の祖母と、親族一同を巻き込んだ諍いがあったそうだ。
(「犬神家の一族」的な)
私は祖父を病院に見舞った記憶は2,3回あるが、詳細な背景は其のとき何も知らない。
父の親族の劣性遺伝子を信じて、彼らをこき下ろすことが口癖だった母は、
ここぞとばかり、「迷惑をかけ、余計な面倒をかける」祖父を責めた。
祖父は体をボロボロにされて死んだ。
其の病院の当時の院長はその事件によって逮捕された。
・・・
父の親族を一方的に劣性遺伝子のごとく罵倒し、蛇蝎のごとく忌み嫌い、
諍いを巻き起こし、不快な態度を取り続ける母の、父は、私と同じ、被害者だと思ってきた。
私の、味方だと思ってきた。
そう、思いたかった。
あれだけのことをされて、いわれて、声を荒げ、薄汚い嘲笑の限りを尽くして罵倒し返して、
それでもなお、父が母の味方であると、普通の感性からいっても、ありえないと思ってきた。
でも、違った。
普通じゃないから、私は、壊れたんだった。
・・
そんなふうに母に罵倒される父を可哀相だと思ってきた。
そんなふうに母を罵倒し返す父を可哀相だと思ってきた。
心に反して人を傷つけることは、さぞかし痛いだろうと。
私が、彼女をたたき、罵倒することが痛いように。
それでも、人に傷つけられ、人を傷つける痛みに慣れることが、
「この世界で生きることに慣れる」ことそのものなのだと、
訓練として痛みに無感覚になる術を獲得しようと、痛みに慣れるために、
頑張って彼女を叩き、貶めていたように。
そして実際、傷つけられる痛みも、傷つける痛みも、
私の中でとぐろを巻く黒いヘビの憎悪のエネルギーになって消えたように。
父も、私と同じように、母のせいで、つらいのだろうと。
・・・
父の性格を一言で現すと、「お笑い芸人」、いや、「コメディアン」。
父のシャレは、ギャグというほど泥臭いものでもない、不思議な笑いのセンスで、
絶望の底のような家の中で、押されれば空気を吐き出す風船のように、
いつも不思議な突発的笑いを、その中に何の感情も篭らない空気の爆発のような笑いを、
父によって私たちは、発作に取り付かれたようにゲラゲラと笑った。
でも、いつもどこか、その笑いの底に、底知れない「恐怖」を感じていたのは、なぜだろうか。
父の笑いの底に、恐怖が沈殿していたからだろうか。
母が、苛烈な炎の怒りの権化だとしたら、父は、その上にある程度の仮面をつけることが可能な、
その上に喜劇役者の仮面を貼り付けることが可能な、
永遠に凍結した硬い氷の塊、「憎悪」の権化だった。
・・
父の性格の履歴もよくわからない。
祖母に聞いた話では、昔の農村、閉塞した村社会そのままに、
長男に生まれた父は、次男や妹とは差別待遇をされて育った。
両親に習って、父もあからさまに次男と妹を差別、侮蔑した。
(特に農村では役立たずの女である妹の叔母さんは、日常的に差別され、大学にいく金ももらえなかった。
山ほどのおもちゃ、新しい服、一番いい食事、上げ膳据え膳、家長の席、
惜しみない物質的豊かさを与えられた。
父は、与えられたおもちゃを、与えられたそばから、片っ端からカナヅチで打ち砕いて壊した。
父の内部にはおそらく、「破壊」することへの希求があるのだろう。