言葉よりも強い痛み。


言葉よりも強い沈黙。



私の言葉よりも強い、あなたの言葉。



私の言葉を閉じ込める、あなたの言葉。




私の中には、涙の余地もない、言葉の余地もない、



痛みと沈黙と、名前を呼ぶこともできない、名前も顔もない記憶が、犇いている。

引き裂かれた言葉の狭間に、落ちる。



父のこと、母のこと、兄のこと、姉のこと、私のこと、


イジメたこと、イジメられたこと、


与えられた痛み、自分から欲した痛み、


まるで、そんなもの、何も存在していないように、


そこには、誰もいないかのように、



そこには沈黙と痛み以外、なにもない。




人に傷つけられるほど、人を傷つけるほど、私が私でなくなっていった。



痛みが痛みでなくなっていった。




それが、「破壊すること」 「喪うこと」だと知った。



それが、「全てを破壊し、全てを喪う」ことが、


痛みも、望みも、全てが消えることが、何もない私に望める唯一の希望だと知った。



言葉になんて、できない。しない。


今とこれからをつなげて、始まりを告げる言葉など。



ここは、もう、ずっと終わった場所。


黄昏を見つめる場所



きっと私は、壊し続けて、捨て続けて、喪い続けて、



後戻りできる一線を越えて、ずっと遠くにいってしまったんだ。


「人間は機械だ」って言い続けたよな。


反論すると、(お前みたいな頭のおかしいやつは



世界中に一人もいない。お前みたいに頭のおかしいやつは



世界中の誰からも理解されない。お前は世界中の誰一人からも受け入れられない。


お前は誰からも理解されずに、世界中に一人きりで生きていくしかない。


お前は誰とも、生きていけない。頭がおかしいから精神病院に入れ。」



といい続けたよな。



私が5歳のときから。



私が「人間は機械じゃない。人間は夢も見るし、意識もある。


ものを考えるし、ものを感じる。」と訴えるたびに、


真性の狂人を見るような目をして目をむいて私を見て、


「おまえはあたまがおかしい・・・・・・精神病院に入れ・・・・・」



といい続けたよな。




お前の言う「機械」の定義が何か知らんが、


人は何も考えない、何も感じない、そんなところだろ。



うん、最近、私、わかってきた。


やっぱり、私があんたたちのいうように「壊れて」いたんだ。


機械として。



「狂って」いたんだ。



私にもわかったよ。



そうだ。



人間は機械だ。



何も考えない、何も感じない。


だからあんたたちはあれほど、私をホコリだらけの布団かなんかのように


布団たたきや掃除機のホースでバンバン叩くことが平気でできたんだよね。


私は機械だから、何をしても何を言っても、平気だったんだよね。



そうだね。


人間は機械だ。


あんたたちにとって私が機械だったように、



私にとっても、あんたたちは機械だ。



だから、いくらカナヅチで殴っても、痛みも何も感じないし、


あんたたちは何も考えないし、


いくら包丁でぶっ刺しても、



あんたたちが流すのは血じゃなくてオイルで、切れるのは肉と骨じゃなくて、


ステンレスかプラスチックかなんかなんだよね。


今までごめんね、ずっと誤解してきて、ずっと間違えてきて、ずっとあなたたちを理解しないで。


私が間違ってた。


ごめんね。


私が悪かった。



そーかそーか。


だから人の額カチ割ったりタコ殴りして顔切って血まみれにしても


何事もなかったように何もせずヘラヘラしてたんだね。


私が機械だから。


人間は機械だから。


機械になにしたって、


何も考えることも、何も感じることも、ないもんね。


機械には何の痛痒も感じることな、く何したっていいよね。


そーかそーか。




うん。あなたたちのいうように、人間は機械だ。


私もあなたも、機械だ。


で、あなたちみたいな機械は、壊していいと思うんだ。



機械に人権なんかないから、いくら壊そうと勝手だしね?


あんたたちが今まで私にしてきたみたいに。



私にもようやく理解できたよ。



あなたたちが機械だってことが。


だから、あなたたちには何をしてもいいんだ、ってことが。


ようやくわかった。



教えてくれて、ありがとう。

専業主婦の母と一日中顔を突き合わせていたのと違って、



深夜になるまで帰らない、丸一日家に帰らないことも有る父と



ただ物理的に離れていたというだけで、勝手に父を私の味方だと、思いたかった。



でも違ったんだ。



私がシビアな現実を受け入れられず、弱さ卑怯さ怠惰から、


現実逃避したいあまり、自己を、現実の父と母を受け入れられず、拒否し、否定し、


都合のいい理想を押し付け、捻じ曲げ、認めることを拒否して、ただ、



逃げ惑っていただけだ。



でも現実を直視して、自他の区別をつけて一線を引き、突き放しながら認め受け入れること、と、


自意識さえなくなるほど、同化、一体化して、彼らのテンションに飲み込まれることは、


見定め難いけど、違う。


親と見紛うばかりの言動をする兄を見ていて、その紙一重の、


けれど、空恐ろしくかけ離れた、「違う」の深遠の深さにぞっとする。



私は、どこまでが私で、どこまでが、私じゃない?



どこまでが、私の意志でしてることだといえて、


どこまでが、丸々意思を親兄弟、家族のそれと摩り替わっていると、いえるのか?



紙一重の、意思、私と、わたしでないものの、同一的酷似の深遠。



私は、わたしだ、とさえ言えない、記憶さえ捏造され、


誰かのシナリオ、フィクションで切り貼りされる、人間の魂の脆さの深遠。





この中にうずくまる憎悪の黒い蛇が、私の中に入って、それが私そのものになったときのことを覚えてる。



5歳だった。


家中に、巨大な黒い蛇がのた打ち回っていた。


父が、父一人分くらいある、黒い蛇に絡みつかれていた。



私は怯えた。


恐怖に対処する私の方法が、恐怖そのものに同化することだった。


父の黒い蛇に怯えた瞬間、父の蛇は私の中に入ってきた。



そのときから、父の黒い蛇は、ずっと私と一緒にいる。


違う、其の蛇こそが、私がいた場所を押しのけて、私になった。


何処から来たのかも、何処へ行くのかもわからない、名前も持たない、


其の存在理由もない、存在目的もない、ただ憎悪のために憎悪し、破壊のために破壊し、


痛みを肥やしに、全てを憎悪し破壊することだけがエネルギーの其の黒いヘビが、


私の声、私の言葉、私の手、私の足、私の胃、私の脳、私になった。


其のヘビが私を食い破るのを感じた。


時々、私を食い破って、新生児のように爆発的誕生をしそうな感じがした。



・・・



後で話を聞くと、家の中に、父と母に、巨大な憎悪の黒い蛇がのたうち回っていた時期、



父の父、脳卒中で倒れた祖父が入院した長野の代表的な病院で、


患者虐待が行われ、祖父にもその痕跡をはっきりと認められ、


そのことで、父と母、もともと関係が悪かった父方の祖母と、親族一同を巻き込んだ諍いがあったそうだ。



(「犬神家の一族」的な)


私は祖父を病院に見舞った記憶は2,3回あるが、詳細な背景は其のとき何も知らない。


父の親族の劣性遺伝子を信じて、彼らをこき下ろすことが口癖だった母は、


ここぞとばかり、「迷惑をかけ、余計な面倒をかける」祖父を責めた。


祖父は体をボロボロにされて死んだ。


其の病院の当時の院長はその事件によって逮捕された。



・・・


父の親族を一方的に劣性遺伝子のごとく罵倒し、蛇蝎のごとく忌み嫌い、


諍いを巻き起こし、不快な態度を取り続ける母の、父は、私と同じ、被害者だと思ってきた。


私の、味方だと思ってきた。


そう、思いたかった。


あれだけのことをされて、いわれて、声を荒げ、薄汚い嘲笑の限りを尽くして罵倒し返して、


それでもなお、父が母の味方であると、普通の感性からいっても、ありえないと思ってきた。



でも、違った。


普通じゃないから、私は、壊れたんだった。


・・


そんなふうに母に罵倒される父を可哀相だと思ってきた。


そんなふうに母を罵倒し返す父を可哀相だと思ってきた。


心に反して人を傷つけることは、さぞかし痛いだろうと。


私が、彼女をたたき、罵倒することが痛いように。


それでも、人に傷つけられ、人を傷つける痛みに慣れることが、


「この世界で生きることに慣れる」ことそのものなのだと、


訓練として痛みに無感覚になる術を獲得しようと、痛みに慣れるために、


頑張って彼女を叩き、貶めていたように。



そして実際、傷つけられる痛みも、傷つける痛みも、


私の中でとぐろを巻く黒いヘビの憎悪のエネルギーになって消えたように。



父も、私と同じように、母のせいで、つらいのだろうと。


・・・


父の性格を一言で現すと、「お笑い芸人」、いや、「コメディアン」。


父のシャレは、ギャグというほど泥臭いものでもない、不思議な笑いのセンスで、


絶望の底のような家の中で、押されれば空気を吐き出す風船のように、


いつも不思議な突発的笑いを、その中に何の感情も篭らない空気の爆発のような笑いを、


父によって私たちは、発作に取り付かれたようにゲラゲラと笑った。


でも、いつもどこか、その笑いの底に、底知れない「恐怖」を感じていたのは、なぜだろうか。


父の笑いの底に、恐怖が沈殿していたからだろうか。



母が、苛烈な炎の怒りの権化だとしたら、父は、その上にある程度の仮面をつけることが可能な、


その上に喜劇役者の仮面を貼り付けることが可能な、


永遠に凍結した硬い氷の塊、「憎悪」の権化だった。


・・


父の性格の履歴もよくわからない。


祖母に聞いた話では、昔の農村、閉塞した村社会そのままに、


長男に生まれた父は、次男や妹とは差別待遇をされて育った。


両親に習って、父もあからさまに次男と妹を差別、侮蔑した。


(特に農村では役立たずの女である妹の叔母さんは、日常的に差別され、大学にいく金ももらえなかった。


山ほどのおもちゃ、新しい服、一番いい食事、上げ膳据え膳、家長の席、


惜しみない物質的豊かさを与えられた。


父は、与えられたおもちゃを、与えられたそばから、片っ端からカナヅチで打ち砕いて壊した。


父の内部にはおそらく、「破壊」することへの希求があるのだろう。



 

あー、そういえば、


ケータイ壊れて、今まで撮った写メとか、ムービーとか、登録してた電話番号とか、


みんな捨てちゃったから、私の過去が一切消えちゃった。


「私は、物語が成り立つには、それに不可欠の二つの要素があると思っています。

一つは、「語る者にとっての現実」であり、もう一つは「語りかける者への信頼」です。

語ることがその人にとっての「現実」でなければ、説得力がありません。

語る人の内にあるイメージといったほうがよいと思います。


”巻き込む”。

これが、物語の大きな力です。

そうすることによって投げかけた問題を受け止めた側が自分のものとして考えることになるからです。

これで、単なる告発よりも、物語の力の方がはるかに大きな力を持っていることがはっきりしてきました。


ところで、こうして巻き込まれた人たちが自分と同じように考えてくれるという安心感がなければ、


巻き込んでも意味がありません。

エンデが物語ることを大切にしたということは、現代社会のありようを強く批判しながらも、

心の中に人間への信頼感を持っていたということだと思います。

そこから何かが変わる、何かが生まれる。

それは文学と科学とが共に求めているものに違いないと思うからです。



語りかけるものを巻き込み、事態を変化させていけるのが物語りの力です。

ところで、この力はまた、語る者自身にも働きかけます。

物語るためには「現実」がなければなりませんが、それは固定したものではありません。

常に動いていく。

語るという行為は、この動きを激しくする作用があります。



・・・語るにつれて自分の中での「現実」がとめどもなくふくらみ、動いていった感覚は身体に残っています。

これがもう少し体系的に進められていくのが、人間が成長していくということなのではないでしょうか。

とくに心が成長することです。

物語は「現実」を踏まえていなければその人の生きる姿が見えないので面白くないと書きました。

別の見方をすれば、生きるということは、一人ひとりが物語を作ることだと言えます。

そしてその物語は、「私」のものであると同時に「時代」のものなのです。




まず、生き物全てが「私の物語」を持っており、


私たち人間はそれを読み解くことができるということです。

生き物一つ一つが持っている物語は、本当は彼ら自身が語っています。


 

・・・・それらを見つめれば、彼らは雄弁に物語ってくれます。

私たちは、自分自身が生き物なのですから


常に生き物の物語を聞ける状態になっていなければならないのです。

それができないのは危険です。」

 

ミヒャエル・エンデ「魔法のカクテル」解説