イヨマンテの夜 | ダバオも良いけどタグムもね

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ミンダナオ島TAGUM CITYでの生活とフェスティバルを紹介しています
2019年8月からフィリピンでストーマ生活しています。

昨日は子供の学校で終業式がありました。

今日から子供は夏休みこれから夏休みが終わるまで生活パターンが変わります。

奥さんは学校のある日は5時前に起きていましたが今日からはのんびりです。

私はあまり変わらなくて5時半ぐらいには起きます。


朝8時過ぎまでとか病気以外では寝てたことないですね、電気を付けっ放しで寝て

るのが嫌なんです。

周りの家に電気が付いてるとまだ寝てるなと分かっちゃうでしょう。

今朝の朝ごはんは7時半頃でした。

いつもより1時間以上遅いですけど、奥さんもこんな時以外はノンビリ出来ないです

から良いでしょう。



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NO1
卒業生は4人です。
新学期は6月でその時に同じメンバーが揃うかは分からないんですね、プライベートの学校ですから嫌なら他のプライベートまたは公立に行ってしまいます。
先生も入れ替わりがよくありますね、先生も給料、待遇の良いところを探していますから。






次の話題は音楽の事です。

この間ムシカハン(音楽祭)が終わりましたが、その時フィリピンの古い歌を沢山聴

いたのですね。

テレビ、ラジオでもよく古い歌を耳にします。

フィリピンではヒット曲があると誰でも歌うしレコーディングもしてると思うんですね。

アナックという歌フレディー・アギラの歌で大ヒットしましたが他の歌手も歌うし、レコ

ーディングもしてます。


最近のテレビコマーシャルでも古い歌を取り上げています。

要するに常に古い歌に接する機会があるのです。

だから古い歌が廃れないで残っているんじゃないかと思います。


これはフィリピンだけじゃなく外国では多いことだと思うのですね。

シャンソンの枯葉という曲がありますが日本人でもよく知ってますよね、ジャズでもス

タンダードとして沢山の人が歌ったり演奏したりしてます。

いい曲はそうやって古くなっても歌い継がれ,弾き継がれていくのでしょう。


私は音楽が好きな方で日本の歌も大好きで、日本の古い歌はどうなっているのだろ

うと思ったんです。

美空ひばりの悲しい酒はこのまま廃れてしまうのか?

坂本九の上を向いて歩こうはどうなのか?

沢山の古いけど良い曲はどうなってしまうのか?


これは私も含めて聴く方にも問題があるのではないかと思ったのです。

どちらかと言うとオリジナルを大事にする例えば前出の悲しい酒、これは美空ひば

りだから良いのであってほかの歌手のは聞きたくない、良くないと思っている(私は

そう思うことが多いのです)これがいけないんだと思うのです。


外国の曲は誰が歌おうと受け入れる、日本の曲は本人以外が歌うのを好ましく思

わない、これがいけない。

日本の曲も誰でも歌えるようにしたほうがいいと思うのです。

またそれを受け入れることが必要なのです。

著作権とか問題もありますがそれが良い曲を後世まで残すには必要な事ではない

かと思ったんです。



ということで古い曲ユーチューブで探しました。


何でもあるという感じですね、美空ひばりも坂本九もありました。


著作権どうのこうの言わずにどんどんユーチューブにアップして欲しいと思います。







私の気になる曲はこれです。



伊藤久男 イヨマンテの夜1975

子供の頃テレビで見ていて凄いなと思いました。

出だしのあーほいや~!!あ~あああ~今考えてみると当時の曲としては画期的

だったのではないだろうか。

最も昔はオペラが流行ったこともあるらしいからそうでもないのかな。



伊藤久男さんウィキペディアに出てました。

伊藤 久男(いとう ひさお、1910年明治43年)7月7日 - 1983年昭和58年)4月25日)は日本歌手。本名:伊藤四三男。福島県本宮市出身。本名の四三男は生年の明治43年に由来。

歌手として [編集]

生家は福島県安達郡本宮町(現本宮市)の旧家。父親は立憲政友会所属で県会議員を務めた伊藤彌[1]、兄は自民党所属で衆議院議員を務めた伊藤幟である。たいへん裕福な家庭で、当時はまだ珍しかったピアノに没頭し、中学の頃にはピアニストを志望するようになる。家族親族の反対を押し切り単身上京、音楽を生業とすることに反対していた家族へのカモフラージュのため東京農業大学に入学。その後、同郷の新進作曲家古関裕而と懇意になり[2]、家族には知らせず農大を退学、帝国音楽学校に進む。同校では同郷の声楽家平間文寿に師事する。
農大を退学したことが家族に知られ毎月の仕送りが止まり、音楽学校の同級生とともにコロムビア吹き込み所で合いの手や囃子の吹き込みのアルバイトを始める。ピアニスト志望だった四三男としては不本意だったが、これが後に作曲家やディレクターたちの耳に止まることになる。

戦中・戦後 [編集]

伊藤久男の抒情性豊かなバリトンで、昭和10年代前半から戦時歌謡のレコーディングが多く、伊藤久男としての初めてのヒットは1938年(昭和13年)「湖上の尺八」(2月20日発売)。慰問演奏藤原義江に抒情的なバリトンを流行歌手として生かすことを奨められる。一時期はオペラ歌手としての進路も検討したが、1938年、大陸戦線服部良一赤坂小梅らと慰問に訪れた際、自分の歌に涙を流す兵隊の姿を目の当たりにし、流行歌手としての途を選択した。
その後、「暁に祈る」「白蘭の歌」「高原の旅愁」「お島千太郎旅唄」と連続してヒットを飛ばし、スター歌手としての地位を確立した。1940年(昭和15年)、日劇のアトラクションに出演し、伊藤が歌う「熱砂の誓い」を客席で見た岡本敦郎は、その歌声に感動し、歌手になる決意をしたと述懐している。
終戦直後は、戦時歌謡を多く歌った責任感から疎開先に引きこもりに溺れ、[4]再起不能とも言われたが、1947年(昭和22年)松竹映画「地獄の顔」(監督:マキノ雅弘)主題歌「夜更けの街」でカムバック。その後は、「シベリア・エレジー」「イヨマンテの夜」「あざみの歌」「山のけむり」「君いとしき人よ」「数寄屋橋エレジー」「ひめゆりの塔」など様々なジャンルでヒットを飛ばした。殊にラジオ歌謡においては詩情豊かな抒情歌が多く、「たそがれの夢」は本人もかなり気に入って、晩年まで愛唱していた。

ピアニストを志していた人が歌手になってヒット曲を出す。
人生何があるか分からないものですね。