幸福の科学を統一教会の信者が見ると -8ページ目

幸福の科学を統一教会の信者が見ると

幸福の科学も統一教会も、同じカルトじゃないかって?まあそうかもしれないけど、幸福の科学を見てるといろんなことを考えさせられるんですよ。「真実は小説よりも奇なり」

次から次へと矢継ぎ早に出される霊言の数々。

そのおかげで年間発刊点数も一昨年は52冊、
昨年は101冊で、堂々のギネス更新とか。


初期の頃もいろんな霊言があった。

日蓮上人に始まり、空海、親鸞、
天照大御神、
イエス・キリスト、モーセ、
孔子、孟子、
坂本龍馬、西郷隆盛・・・。


歴史上の偉人、義人、聖人と言われる人たちが
現代を見ると、どのように感じられるのだろうか?
ということで、
それは個性豊かでとても面白かった。


1994年だったか、「方便の時代は終わった」で
霊言は、いろんな霊の言葉を語ることで
いろんな個性の霊の姿を見せ、
いわば霊界の証明であった
そんな説明を聞いた。

それでいったん霊言の出版は終わった。


そして再び2009年頃から再開。
民主党の台頭によって日本が危機的状態になり
いてもたってもいられず霊人たちがメッセージを送ってきているという。


松下幸之助、坂本龍馬、オバマ大統領の守護霊から悪霊、悪魔まで──。
まさに上から下まで、あらゆる霊を呼び寄せて霊言。

その様子は、リバティ・ウェブに詳しく特集で解説されていた。
http://www.the-liberty.com/article.php?item_id=3157

「では、大川総裁はどうか。映像を見た雑誌記者も「あれ、もう入ったの?」と驚くほど、簡単に霊が入る。しかも、大川総裁の意識ははっきりしたままで、時折、総裁自身の意識が語るなど、「二人羽織」状態で霊言ができるのだ。」

またリバティには
「そもそも宗教の開祖は皆、霊能者、預言者であったし
世界宗教は霊言から始まっている」
という説明もなされている。

なるほどなあ・・・。



ただ、私には大川隆法氏に対して大きな心配がある。

人間は本来、「神の器」であり、「神の住む宮」である
と考えているからだ。


聖書に聖パウロの有名な言葉がある。

「あなたがたは神の宮であって、神の御霊(みたま)が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。」
(コリント人への第一の手紙)

神を求め、神の霊を自らに臨ませて霊言を語るのならば良い。
世界宗教は霊言から始まったというが、
神や高級霊の言葉を預かり語るというまさに「預言」であっただろう。

しかし、神でも高級霊でもない人物の霊、
時には悪魔や低級霊、地獄霊まで呼び出して語るというのは
あまりにも危険な行為である。

小学生の頃、コックリさんが流行った。
誰々さんが好きなのは◯◯だ・・・なんて当てて
大騒ぎしていたが、
祖父母から強く叱られた。
「こっくりさんなんかやってると
狐に入られて居座られてしまうよ」と。

そして実際に「誰々に狐が入って出ていかなくなった」と
いう噂が立ったりした。

私は最近幸福の科学を見ていると、どうもそれと同じに見えてしまう。

「こっくりさんなんかと一緒にするな!
地球最高の霊能力保持者なのだから
霊はすべてコントロールできるんだ」とお叱りを受けそうだ。


まあ、本当に私が思うのは
いかに神と一体となるか?
いかに自分自身を神の宮とするか?
それが信仰者として大切なことではないかということ。

人間の「神の宮」であるべき聖なるところに
神ではなく、いろんな霊人、上から下まで、
地獄霊や悪魔やはては宇宙人まで招くというのは
不浄なことではないかと感じるのだ。

もっとご自分を大切にされたほうがよいのではないか?

私としては
天地創造の親なる神はどのようにお考えなのか?
神の子として、いかに神に近づいていくことができるのか?
どうしたら神も人も喜ぶ生き方ができるか?

そんな話を聞きたい。

亡くなった人間レベルの霊言ではなく、
世界宗教の開祖や預言者たちのように
神の言葉をこそ、語って欲しいのだが・・・。

そのほうが実際に何倍もインパクトがあるだろう。
量より質が問題ではないか?

初期の幸福の科学のように、せめて四大聖人の霊言とか。

大川隆法氏には、なにか我々には計り知れない「深いお心」があるのだろうか・・・・。



今回はひとりごとのようになってしまった。

私が個人的に感じているのは、
最近の霊言には、初期の霊言みたいに
人格の向上や正しき心の探求に役立つような内容が少なく
書店でチラ見しても、読む気になれないものばかりなので、
もしかしてあまり低級霊とか雑霊の霊言をし過ぎて
高級霊を呼べなくなっているのでは・・・ということ。
大川先生、ほんとうに大丈夫ですか~

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前回、「心の豊かさとは」と考えていたら、
マザー・テレサが来日された時の言葉を思い出した。

カトリックのサイトより「マザー・テレサを偲んで」

「日本に来てその繁栄ぶりに驚きました。日本人は物質的に本当に豊かな国です。

しかし、町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に無関心です。物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちです。

物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人たちです。

愛の反対は憎しみとおもうかもしれませんが、実は無関心なのです。 憎む対象にすらならない無関心なのです。」


マザー・テレサは、日本人の印象を
「物質的には豊かだけど、精神的には貧しい人たち」
表現した。

耳の痛い話である。

幸福の科学流にいうと、
「清貧」が良いことなのか?
発展・繁栄の法でもって、豊かさを肯定し
「清富」をこそ目指さなければ・・・
ということになるのかもしれない。

ブータン国王夫妻が来日された際も
たしかそのようなコメントがあったように思う。

たしかに、一番良いのは「物質的に豊かで、精神的にも豊か」であろう。
「この世とあの世を貫く幸福」と言うように。

しかし、日本に生まれただけでも、世界からみたら
すでに圧倒的な物質的豊かさのなかに生きているのが私たちである。

マザー・テレサの忠告を素直に受け止めて、
「物質的には豊かだけど、精神的には貧しい人たち」にならないよう
心していきたいものだ。



この記事は、先回の「あなたの対応、そこに心の豊かさはありますか?」
に続くものです。


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ある問題に直面した時、
どのように受け止め、どのように対応するのが最善なのだろう?

ということを考えてみた。

どのように対するのが、豊かな心なんだろう?
愛のある対応なんだろう?

神様はどう対応することを願われているのだろう。

同じ場面、同じ状況に立たされたとき、
イエス様だったらどう対応されるだろう?

自分が師と仰ぐ人だったら、どのように対応されるだろう?

尊敬する先輩だったら?

そう考えると見えてくるものがある。


ここ1週間くらい、ブログ村での
信者さんとアンチさんの応酬をみていても、同じようなことを考えた。


たかがブログ、
しかしされどブログで
そこに人となりが表れる。

対応の仕方に、心の豊かさ・貧しさが表れるように思う。

そしてその対応のしかた、態度に対して、
傍から見ている人は、それを敏感に感じる。

心の豊かさ・貧しさを、
たとえば快・不快という感情で。

客観的に見ている人は、正直なものだ。
当事者にはなかなかわからないことかもしれないけれども。



まあ私も、ブログ村の統一教会カテゴリに
ずらりとアンチブログが並んでいるのは、決して気分の良いものではないから
幸福の科学信者さんたちの気持ちもわかる。

純粋な信者さんが見たら、傷つくかも・・・と心配にもなる。

統一教会なんか、ブログ村という次元ではなく
インターネット自体がアンチの渦だもんな(笑)


だからといって、情報にふたをするわけにもいかず、
できるはずもない。
実際の人間関係や日々の生活を通して、
何が正しくて何が間違っているのか
自分の目で判断してもらうしかないだろう。

インターネットの普及は
ごまかしの効かない世界、
嘘のつけない世界に向かっていると思う。

これは、神様が喜ばれることではないだろうか?


幸福の科学にも、良い言葉があった。
たしか、初期の頃の「不動心」だったろうか、
「悪には、圧倒的善念で対応せよ!」と。

その心意気でいけばよい。



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幸福の科学の施設が宇都宮にできたとき、
そこに参拝しようとした信者5人が乗った車が高速道路で事故を起こし
全員死亡したことがあった。

その事故はTVニュースで流され、
当時インターネットでも噂になったから
私も記憶がある。

先日種村さんのブログ「真実を語る」に、そのことが書かれていて思い出した。

種村 そういえば、宇都宮の総本山ができて数年したころ、車に同乗して精舎に向かっていた会員さん5人が高速道路で事故にあい、全員死亡したことがありました。教団で超極秘扱いになった出来事でした。


なんと、これは教団内では、「超極秘扱い」とされたそうだ。

???

なぜ隠さないといけないのか?

「精舎に向かう途中で信者さんが事故に遭い死亡された」と発表すれば
信者さんの信仰が揺らいでしまうとでも心配したのか?


なんと冷たい話だろう?

大切な信者仲間が事故で亡くなったとすれば
みんなで涙を流し、冥福を祈ってあげればよいではないか?

血も涙もない、何の愛も情もないのだろうかと
空恐ろしく感じるのは私だけか?

(元妻のきょう子さんや
第一弟子であった種村さんへの仕打ちを見ても共通点がかいま見えるから
そもそもがそういう体質なんだろうか?)



2003年頃だったか、韓国で、統一教会信徒の家が火事になり
幼い子供4人が焼死したことがある。

父母の悲しみはいかばかりか?

この知らせは信徒全体に知らされ、
みんな涙を流した。

私も幼い子供がいたから他人事とは思えず
胸を痛めた。

世界中の信徒が自主的にお金を集めて
その夫婦にお見舞いをした。

韓国で2000人ほど集まった集会の場で
その夫妻が紹介され、世界中から集まったお見舞い金を渡したその場に
たまたま私も居合わせたので、よく覚えている。

激励の拍手が鳴り止まなかった。

代わってあげる事もできないし
亡くなった子供が帰ってくるわけでもない。
何もできないけれど、何とかしてあげたい。

これが家族である。

神とともに、兄弟姉妹とともに、
喜びも悲しみも分かち合う。
これが天国ではないか?

私の信じる神様は、そんな熱い心を持った神様だ。

というか、別に宗教でなくても
どこの団体もそんなものではないだろうか。


たとえどんなに学校の成績が良くても
どんなに超難関の大学に合格したとしても
もし、こういった人間として当たり前の「情」が育っていないとすれば
人間として欠陥である。



死亡事故のことを「超極秘事項」としなければならなかった・・・?
これは幸福の科学の不思議である。

幸福の科学学園においても
人間的な、バランスのとれた教育がされていることを祈る。



今回の記事は、先日の
「イイシラセ!まるでアンビリーバボーな話」
「奇跡信仰の限界」
「信仰の本質は何かを考えさせられる出来事」
に続くものです。

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今回は、
「イイシラセ!まるでアンビリーバボーな本当の話」
「奇跡信仰の限界」
に続く記事である。


信仰において、奇跡は本質ではない。

2008年7月、文鮮明師が88歳の夏、
なんと文師夫妻を含む16人が乗っていたヘリコプターが墜落炎上した。

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると
アメリカ・シコルスキー社のS92型

$幸福の科学を統一教会の信者が見ると
ニュース写真

ヘリコプターの墜落事故といえば
乗員全員が死亡してもおかしくない。

この時はなんと搭乗していた16人全員が助かったのだ。

墜落する際、機体後部が木に挟まり機体の回転が止まったこと。
窪地に墜落したこと、
墜落後、ドアがスムーズに開いたこと。
他いろんな偶然が重なった。

そして爆発炎上するまでの20分の間に
重傷者を含め全員が脱出できた。


じつは
この事故の後、ヘリコプターの操縦士のインタビュー映像を見た。
「統一教会に入教したい」と言っていた。

奇跡を目の当たりにしたからか?

そうではない。


ヘリコプターが落ちた瞬間、
普通は我先にと逃げ出そうとする衝動から
パニック状態になり、大混乱するのが普通であるという。

しかしこの時は

長時間の訓練を受けた軍人でも難しいほどのスムーズさで、
全員が爆発する前に整然と脱出できたのだ。

文師は88歳であり、
小学校低学年の児童が3人乗っていたにもかかかわらずだ。

ヘリコプターの操縦士は
生きるか死ぬかのギリギリのところで
自らをかえりみず助け合うメンバーの姿を見て
「ホンモノだ!」と思ったという。

それで感動して、統一教会に入会したい
と思わず口走ったのである。

その後、操縦士がどうなったのかは知らないが・・・(笑)



イエス・キリストが十字架にかかる場面では
弟子たちはみな逃げてしまった。

しかし、文鮮明師のヘリコプター墜落の場面では
誰も逃げることなく、
生命をかけて助け合ったのだ。

これが信仰の本質であると思う。

ヘリコプターが墜落炎上したにもかかわらず
全員が助かったという奇跡が重要なのではなく、
信仰を土台として、
どれだけの絆を結ぶことができているか

これが重要なのだ。
これが信仰の実りなのだ。

神様を中心とした人間関係。

神様を同じ親とすれば、皆、神のもとに兄弟姉妹である。

他人であっても本当の家族のように思える人間関係、
そのようにしてできる世界が人類一家族の世界であり、
神様が願うユートピアの世界なのだ。

そのプロセスなくして、
奇跡でもって、地上のユートピアができるはずもない。

「まず、自らの家庭をユートピアにせずして、
全世界をユートピアにすることはできない」という
幸福の科学の「仏陀再誕」に書かれている主張も
そのような意味であると私は理解している。

先日紹介したブラジルの兄弟の、アンビリバボーな証も同様だ。
確かにあれだけの大事故で無事だったことに驚くが、
それ以上に、TVニュースに映しだされる奥さんと3人の子供たちの姿、
ポルトガル語なので何を言っているのかはわからないけど、
その家族の姿が美しく感動的なのである。




「仏陀離婚・即再婚は神の予定なのか?」の記事も参考にどうぞ。

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