こんにちは、うるまです。

前回記事では、大学時代のアルバイトのお話をしています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、大学のお話です。4月に入学式を終え、次にやってくる一大イベント。

そう、それは「授業の履修登録」です...。

 

簡単にいうと、大学で受講する授業の”申請登録”です。基本的には半期ごとに行うので、4月と10月に履修登録を行います。

 

この履修登録。最初は自分1人でするのがとても難しいです。申請できたと思っても、正しくできているのか不安で仕方がないのです。

 

履修登録をどのように乗り切るかで、その人の性格が分かってしまいます。

 

まず、協調性があり周りを巻き込めるタイプの人。はい、最強ですね。履修登録で困ることはないでしょう。おめでとうございます。授業の出席を友達にお願いして、最終的にバレて落単する人も多い属性です。

 

 

そして、周りに声を掛けれず、自力でなんとかするタイプ。私はこのタイプでした。

 

このタイプ、よく言えば「自走力がある」人ですが、一般的には「周りを頼れない一匹狼」として社会的な評価は低いです。

私は周りの人を頼ることが苦手で、何でもとりあえず自分1人で完結させようとしてしまいます。

 

どちらが良いかは結果論で、一長一短あるとは思いますが、現在の社会では「周りを巻き込んで何かを成し遂げたこと」が美徳とされがちです。


巻き込まれた人は、それを良しとしているのでしょうか?色々と考えさせられました。


最後までご覧いただきありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、大学入学と同時に、憧れの一人暮らしデビューした当時のお話をしています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、アルバイトのお話です。

私は大学が京都にある関関同立のうちの1校に通っていまして、初めてのアルバイトは京都でした。

 

当時は、居酒屋やチェーン店は忙しそうで、ついていく自信がなかったので、家の近くにある小さな商店街の青果店に応募しました。正直、時給も安かったので応募する人もおらず、簡単な面接だけで”採用”となりました。業務は、レジと品出しです。

 

「こんなに簡単に決まってしまったけれど、大丈夫だろうか...?」

 

当時の社会経験の少ない私は不安になっていたことを、今でも鮮明に覚えています。

しかし、そんな不安はどこ吹く風というような感じで、このバイト先は私にとっては”最高の職場”でした。

 

まず、お客さんがみんな優しい。温かい。地元の方々が毎日のように来る青果店だったので、お客さんとの会話も増えてきて、お客さんも含めてアットホームなアルバイト先でした。

 

そこでみなさん、「ありがとう」と言ってくれて、私はこの言葉を貰えた時が1番やりがいを感じていました。自分が相手のことを考えて行動したことに対して、感謝してもらえる/喜んでもらえることがモチベーションになる人間であることに、このアルバイトを通じて気付くことができました。

 

この気持ちは今でも変わりません。自分の周りの人が喜んでいる顔が、やはり今でもやりがいになっています。

 

その他には、このアルバイト先は売れ残ったお惣菜を持って帰らせてくれました。1人暮らしの私にとっては、食費が節約できて最高でした(笑)

また京都に行く際は、アルバイト先にも顔を出しに行きたいと思います...。覚えてるかな...。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、高校の卒業式での私の後悔についてお話ししています。↓↓↓

 

 

 

さて、前回までは高校時代のお話をさせていただきました。本日からは「大学時代」のお話をさせてください。

 

私は大学入学と同時に、憧れの一人暮らしデビューを迎えることとなりました。当時は、”自由”に憧れていて、親に何度もお願いをして何とか勝ち取りました。

 

ただ、私は地元が兵庫で、大学が京都にあったため、毎日の通学時間が2時間弱だったということも、一人暮らしを許してもらえた要因だと思います。

 

 

私の人生初の一人暮らしは、大学から徒歩3分の築15年のアパートでした。6.5畳の1Kで、自分の城を得た私は「少し大人になった気分」で嬉しかったのを覚えています。

 

そんな優越感も束の間、大学生活が始まると、大学の授業やバイト、そして家事、洗濯など大忙しでした。

ありがちですが、この時に初めて「母の偉大さ」を実感しました。

 

主婦ってご飯の準備や洗濯、掃除など一般的な仕事以外にも、消耗品の管理やストックの買い溜めなど「あまり目に見えない仕事」が多く存在することを知りました。

 

そして、「感謝されることがほとんどない」

 

”やって当たり前”の仕事で、家族から感謝される機会も少ない。改めて大変な仕事だなと実感しました。

その他にも、やっぱり「母の味」って存在するんですね。実家を離れて初めて「母の料理は最高だったなあ」と気付きました。

 

 

私は今、妻と一緒に暮らしていますが、結婚前に一人暮らしをしていて良かったなと日々感じています。

妻がしてくれた「目に見えない家事」に対してもお礼を言うことができるのは、一人暮らしを経験したからこそだと思っています。

 

妻がしてくれていることを「当たり前」と思わず、これからも”ありがとう”の一言を伝え続けるようにしていきます。

やはり、妻の笑顔が夫婦円満の秘訣ですから。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、進研ゼミで挑んだ大学受験のお話をしています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、高校の卒業式のお話です。私は2016年3月に地元の公立高校を卒業しました。

今でも覚えていますが当日は曇り空の中、無事卒業式を迎えることができました。

 

楽しかった高校生活が終わってしまうことに寂しさを感じながらも、これから始まる大学生活にワクワクしていたことを鮮明に覚えています。環境が変わることは私にとってはポジティブなものだったので、ワクワクの方が多かったように思います。

 

 

ただ、私は高校の卒業式において、今でも後悔していることがあります。

 

それは、「卒業式で歌を全力で歌わなかったこと」です。

 

思春期の私は「真面目に全力で取り組むこと=ダサい」という思い込みで、卒業式の歌は真剣に歌いませんでした。格好つけていたのだと思います。シンプルにダサいです。

 

私の学年は、レミオロメンの3月9日を卒業式で歌いましたが、私はほとんど口パクで真剣に取り組んでいませんでした。

時間が経って気付きましたが、何事も手を抜いて良かったことってほとんどないです。

 

 

他人からどう見られるかを気にして、全力で取り組まない、もしくは全力で取り組んでいる人を馬鹿にするという行為は、自分の価値を下げることになりますし、何よりダサいです。

 

失敗しても全力で取り組んでいた人は、「100%やり切った」という満足感と自信を得ることができます。ただ私のような、全力で取り組まないことをカッコいいと思っている人は、そのような経験を得ることはできなくなってしまいます。

 

もし成功した場合でも、「そこまで全力でしていないのに、なぜか成功した」という、根拠のないスカスカな自信と論理的に説明できない経験が残ってしまいます。

 

逆に失敗してしまった場合は、「まあ全力でしていないし、失敗するのも当然だ」というように、努力しない自分を正当化してしまう人になってしまいます。

 

実際に私がそうです。

 

「いつも何か言い訳を探して、継続的に努力できない人」に成り下がってしまいました。

 

このようなことは誰も教えてくれません。結局は自分が挫折して、自分で経験することによって価値観や考え方に刷り込まれていくものだと思います。

 

だからこそ私は、「まずはやってみる」という考え方をこれからも持ち続けていたいです。

上手にできなくてもいい。でも100%やり切ったかは自問自答する癖を付けるよう心掛けています。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、サッカー部のサラサラヘアーについて物申しております。↓↓↓




さて本日は、大学受験の話をさせてください。

みなさんは受験勉強のことを覚えていますでしょうか?


私は塾に通わず、進研ゼミのみでの受験を選択したので、とにかく「孤独」な受験期間でした。


一見、受験勉強が上手くいかなかったように感じますが、私にとっては「孤独」「1人」という環境は合っていました。


周りに気を遣わない環境でこそ、私は能力を発揮することができると気付くことができました。


この時から「孤独を愛する」HSS型HSPの気質は出ていたのだと思います。


結果、第一志望にも合格することができ、「1人でやり切る」という経験と自信をつけることもできました。



だからこそ私にとって「孤独」や「独りぼっち」という環境は、決してネガティブなものではありません。


じっくりと自分の能力や自信を付けるための、貴重な時間として捉えています。


長い人生の中で、少しの期間ぐらいは「孤独」を楽しみ、グッと堪える時間があってもちょうど良いのではないかと思えるようになりました。


私にとって受験勉強は、志望校合格よりも大切な価値観に気付く貴重な時間でした。


まぁ、もう一回は嫌ですが...笑


最後までご覧いただきありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、「野球部=丸坊主」という謎の風習に対して、私の考えをお話しています。↓↓↓

 

 

 

さて今回はサッカー部に対して、全高校球児の代弁をさせていただきたいと思います。

 

ズバリそれは、「サッカー部!!お前らのサラサラヘアー羨ましいぞ!!」。

 

現場からは以上です。ちなみに異論は認めます。

 

 

オシャレとは正反対の位置に存在する”丸坊主”の野球部は、ロン毛のサッカー部に敵対心剥き出しでしたね...。サッカー部の子からすると、何もしていないのに憎まれているという理不尽でしかないですね。

 

ただそれは”憧れ/羨ましさ”からくる妬み以外何ものでもありません。

 

実際、野球部を引退すると、みんなとりあえず髪の毛を伸ばします。あれほどまで否定していたロン毛を目指して、とりあえず髪を伸ばします。髪がハネるかハネないかの微妙な長さを我慢して、とりあえず髪の毛を伸ばすのです。

 

 

ごく稀に”丸坊主のサッカー部の子”も存在します。その子に対しては野球部もウェルカムモードです。もう家族同然でしたね。

基本的に”丸坊主のサッカー部”はフォワードの子が、過去の統計上多かったです。(うるま調べ)

 

結論、ただの”ないものねだり”で、サッカー部のサラサラヘアーを否定することでしか、丸坊主の自分たちの尊厳を保てなかったのだと思います。

 

高校のサッカー部の皆様、当たり屋のように一方的に妬み、否定してしまい、誠に申し訳ございませんでした。

この場を借りて謝罪させていただきます。

 

それでもやっぱり、サラサラヘアーで高校時代を過ごしたサッカー部が憎い(羨ましい)!!!!!笑

 

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

 

こんにちは、うるまです。

前回記事では、”計画性”が最も求められる「朝の時間」についてお話しています。↓↓↓

 

 

さて本日は、高校の野球部時代のお話です。

今でこそ「野球部=丸坊主」の風潮は薄れてきていますが、私が高校球児だった頃はまだ謎の風習は健在でした。

 

入学後1週間の仮入部の時から丸坊主を強制され、野球部に入部する条件として”丸坊主”が設けられていました。私は反抗することなく、いつもバリカンで5mmに剃ってもらっており、特に違和感をもってはいませんでした。

 

しかし冷静に考えると、なぜ丸坊主にしなければならないのでしょうか?「野球部=丸坊主」である論理的な必要性が思い付かないのです。

 

この風習は、過去からの積み重ねによって出来上がった慣例のようなもので、特に丸坊主にすることの根拠はないのだと思っています。今年の夏の全国高校野球では、”丸坊主ルール”を廃止している慶応高校が優勝しました。

 

いや、”優勝してくれました”。

 

この慶応高校の優勝によって、自分たちの”丸坊主にして努力を重ねてきた”高校野球人生を否定された人々が大勢いるのです。私はこの謎の風習を否定して欲しかったので、実は慶応高校の優勝を願っていました。

 

野球を経験してきた一個人としては、競技人口を増やす(減らさない)ためにもこの風習は無くしてほしいと思っています。

 

実際に私が高校の時も、「丸坊主にするのが嫌」という理由で野球部に入ることを諦めた友人が数多くいました。競技人口を減らしてまで、この理屈の通らない風習に固執する意味が私には分かりません。

 

 

今年の慶応高校の優勝が、謎の風習の縛りを解くきっかけになることを願っています。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、”大人”という存在に対して不信感や嫌悪感を抱いていた高校時代の話をしています。↓↓↓

 

 

 

さて本日は、”計画性”のお話をさせていただきます。

何を隠そう、私は計画性がありません。何かを計画立てて進めることが苦手で、その場で臨機応変に対応する方が動きやすいタイプです。

 

どちらも一長一短あるかと思いますが、この”計画性”が最も求められる場面をみなさんはご存知でしょうか?

 

それは、”朝の時間”です。

 

これは高校生の時も、社会人になった今も変わらないです。不変の真理かと思います。

眠い目を擦りながら、朝ごはんを食べてエネルギーを蓄える。さらに学校に行く準備をしながら、時間との戦いを繰り広げなければならない。実は”朝の時間”ってかなりハードスケジュールなのです。

 

だからこそ朝の時間は、”計画性”がなければバタバタしてしまいますよね。私は残念ながら計画性を持ちあわせていなかったので、「時間に余裕を持って学校に行く」という夢のような話とは無縁でした。

 

毎日1分1秒を争う、時間との勝負を繰り広げていました。

 

 

なぜ私には”計画性”なこれほどまでにないのか?少し考えてみました。

 

まず思い浮かんだのは、「基本的に楽観的で”何とかなる”と思っているから」。これです。

極論、学校/会社に遅れても、命までは取られないし何とかなる、と思っているのだと思います。

 

 

その他にも、私は「結果主義」であるということも影響しているのかもしれません。私は結果さえ出ていれば、正直過程はどうでもいいと思っています。

 

すなわち、「学校/会社に間に合う」という結果さえ出せているのであれば、「計画的に朝の時間を過ごせたか?」という過程の部分には重要性を感じていない、ということです。

 

だからこそ、私は朝の時間を計画的には過ごせていませんが、ポイントは常に把握しているつもりです。具体的には「◯時◯◯分にはこれをする」「最終◯時◯◯分には家を出る」「◯◯分に出たら歩けるけど、××分に出たら走らないと間に合わない」というようにリミットを常に意識しています。

 

朝の過ごし方は綺麗ではありませんが、基本的には遅刻しませんし、時間通りに登校していました。(いつもギリギリでしたが...)

 

 

この結果主義は、「自分の行動によって得られた結果に満足/納得しやすい」「勉強や練習しただけで満足しない」というメリットを得られたのは、個人的に良かったなと思っています。

 

ただし、現代の日本は”結果”よりも”過程(プロセス)”を重視する風潮が強いと思っています。同調圧力が弊害となり、みんなが納得できる手段/プロセスによって得られた結果に対して、価値を見出しているように感じます。結果が良くも悪くも、過程(プロセス)が重視されます。

 

 

「結果を一直線に追い求める諸外国」と「過程を気にしながらも結果を追い求める日本」

 

どちらがこれから発展していくかは一目瞭然ではないでしょうか。やはり、私は勝ち負けの世界で結果を追いかけていきたい。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

前回記事では、高校時代のコンプレックスである”身長”についてお話しています。↓↓↓

 

 

 

さて今回は、「私、高校時代ひねくれていたな〜」と思うエピソードをお話しさせていただきます。

 

結論、私は”先生”という存在が大嫌いです。

 

 

はい、ひねくれていますね。高校時代は、いわゆる”大人”という存在に対して不信感や嫌悪感を抱きながら生きていました。何か特別に”コレ!”というエピソードはありませんが、日常生活で様々な大人と接する中で半ば無意識的に醸成されていたのだと思います。

 

常に”先生”という存在に対して、心の中で中指を立てていました。(学校関係の皆さま、気分を害する可能性があるのでお引き取りくださいませ。誠に申し訳ございません。)

 

 

当時、私が先生を嫌いだった理由は、大きく3つあります。

① 上から目線でモノを言ってくる

② 出る杭はとりあえず打つ

③ ”学校”でしか生きていないのに、なぜか偉そう(一部)

 

 

さて、1つ目の「上から目線でモノを言ってくる」という点については、部活や授業で頻繁に感じていました。

 

私が通っていた高校だけかもしれませんが、「先生=偉い」と勘違いしている大人が多すぎると思います。「先生/教師」や「生徒」というのはただの役割であって、あくまで対等な関係であるべきだと思います。

 

集団に指導する立場なので、一定の主導権は先生に譲渡するべきだとは思いますが、先生と生徒の関係を「主従関係」だと勘違いしているようなバカな教師が私は大嫌いです。

 

ただの役割を「偉い」「何をしてもいい」と勘違いする人が多いからこそ、先生/教師の世界は年功序列で上の言ったことが”正”になってしまう文化なのだろうなと思いました。

 

 

2つ目と3つ目に関しては、高校3年間過ごした私の先生に対する印象です。日常の積み重ねでこのような”ひねくれ坊や”が誕生してしまいました。

 

 

 

先生への不満をぶちまけてしまいましたが、私は学校教育には正直期待していませんし、自分の子供にも”友達と上手に仲良くする練習の場”にしてくれたら充分としか思っていません。

 

実際、国語や数学、英語などは教えてくれるけれど、お金や法律、社会保険、ビジネスの知識など、”生きていくための勉強”はほとんどさせてはくれませんでした。

 

”国にとって都合の悪いことは教えない”

 

そのスタンスが見え見えの日本の学校教育に対して、不信感しか抱きません。

何のための学校教育なのか?私は”日本人を全員同じ形に整えて、国や政府の政策に疑問を抱かないバカを育てるための教育”になっているように感じています。

 

私からは以上です。

 

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

こんにちは、うるまです。

 

前回記事では、「異性を意識しすぎると、自分をよく見せるために、本来の意思とは離れた行動をとってしまう」ということについてお話しました。↓↓↓

 

 

 

 

さて本日は、私の高校の頃のコンプレックスについてお話させていただきます。

 

みなさんもあまり人に話したくない/なかったコンプレックスってあるのではないでしょうか?当時は深刻に悩んでいても、今振り返るとそんなに悩むようなコトでもなかったな、と思うこともしばしばありました。

 

私にとって高校時代のコンプレックスは、そう「身長」でした...。

 

小学生の頃からずっと身長が低く、学校の背の順では常に1番前の列でした。結局高校入学時も身長が低く、当時は158cmでした。

とにかくこの”身長が低い”ということがコンプレックスでした。

 

 

理由は大きく2つあります。思春期男子の考え方なのでお手柔らかにお願いいたします(笑)

① 女子にモテない

② 男子に舐められる

 

1つ目の「女子にモテない」というのは文字通りです。”チビ”はどうやら恋愛対象に入らなかったみたいです...。

 

チビ男子あるあるで「かっこいい!」と言われることは皆無ですが、「可愛い!」と言われることは多いです。

 

最初は「可愛い!」と言われて嬉しかったですが、「可愛い=恋愛対象外(彼氏としてはナシ)」という悲しき方程式が隠されていたのです。当時は身長も1つのステータスだったように思います。

 

さらに今はスマートフォンの発達により、SNS等で様々な人(イケメン・美女)を見れるようになっています。この影響により恋愛市場では、より一層「ルックス重視」になってきている気がします。最近は小・中学生でも流行を掴んだオシャレな格好をしている人をよく見かけます。

 

私は今の学生に比べると、「甘い恋愛市場」で学生生活を送れたのかもしれませんね。

 

 

2つ目の「男子に舐められる」というのも文字通りです。男子は基本、身体の大きさで上下関係が発生しがちです。他にも格闘技を習っているか(喧嘩が強いか)によって相手を上に見たり、見下したりする生き物です。

 

私のようなチビは、格闘技などをしていなければ基本見下されます。なぜなら”弱そう”だからです。

私は高校クラスメイトで1人、執拗に”チビ”である私にちょっかいを掛けてくる子がいました。(いじめまでは酷くなかったです)

 

その子は、私にだけそのような扱いをしており、他の人にはちょっかいを掛けてはいませんでした。シンプルに私は舐められてしまい、その子の優越感を満たすためだけの道具になってしまったのです。

 

「相手を見て、態度を変える」というのはあまり良くないように映りますが、実際はどうでしょうか?

 

今の現代社会においても、みな「相手がどういう人かによって、自分の態度や接し方を変えている」と思います。「相手を見て、態度を変えるな!!」という言葉は、私にとっては綺麗事にしか聞こえません。

 

 

”周りを変えるよりも自分が変わる”方が、根本の解決にも繋がりやすく、時間も無駄にしないと感じました。何より自分が納得して行動した際の結果は、良い・悪いに関わらず受け入れることができたからです。

 

全て自己責任や自分事として考えるとパンクしてしまいますが、基本的には”自分はどうすべきか”というスタンスで生きていきたいと思います。

 

今回はこの狂った人間界を生きていくための、私の教訓についてお話ししました。

最後までご覧いただきありがとうございました。