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息子の1日入園の日。
子どもたちだけ前に座って、
先生が「名前は?」「好きな色は?」などと質問していくのですが
人見知り全開の息子は、答えられず、
わたしは冷や汗をかいていました…。
次々と、しっかりと答えていく子たちを見て
「子育て失敗したかな?」とか
「なんで、うちの子はしっかりと答えられないんだろう?」とか
「みんなできるのに、なんで息子はできないのかな?」とか
グルグル思考に囚われてしまっていました…。
息子が出来ないこと=わたしが出来ない母親
になっていて、このころは、
本当に自分責めが止まりませんでした。
12月下旬生まれの一人っ子。
もともと大人しめの、一人で没頭して遊ぶタイプの男の子。
発達に特に問題なかったので、
今思うとそのまま見守ってあげればよかったなと思うんですが、
周りと比べては、
出来ていないことに落ち込み、
息子には、
無言のプレッシャーを与えていたのかもしれません…。
なぜ、「できない子」を見ると自分を責めてしまうのか
あの日の冷や汗、今でも思い出せる。
「なんで答えられないの」じゃなくて、
「なんで私の子は…」に変換されている、あの感覚。
あれは、子育てへの不満じゃなくて、 自分への裁判だったんだと思う。
☆「子どもの姿=自分の評価」になるのは、なぜ?
これ、性格の問題じゃないんです。
HSS型HSPの人は、
環境からの刺激をものすごく細かく処理する神経系を持っています。
他の子が次々と答えていく光景、
先生の視線、会場の空気感。
そういうものを、全部同時に受け取ってしまう。
情報量が多いぶん、比較も自動的に、すごいスピードで行われる
「あの子はできてる」「うちの子はできていない」が、
選ばずして入ってくるんです。
そこにアダルトチルドレンの背景が重なると、
話がもう少し複雑になる。
機能不全な家庭で育った子どもは、
「親の機嫌=自分の責任」という回路を、
生き延びるために作ります。
「場の空気が悪くなるのは、私のせい」
「うまくいかないのは、私が悪いから」
この回路、大人になっても消えないんです。
だから、息子が答えられなかったとき
無意識に「これは私のせいだ」という結論に飛んでしまう
子どもの困り感を見ているようで、
実は自分が裁かれている感覚になっていた。
それが「冷や汗」の正体だったんじゃないかなと思います。
☆神経系は、比較という「脅威」に反応する
ポリヴェーガル理論の視点から見ると、
あの場面はこう整理できます。
「他の子と違う」という知覚は、
神経系にとって社会的な脅威として処理されます。
仲間はずれや孤立の予感、恥の感覚
これらは、動物として生き延びるための
アラートと同じ回路で感知される。
HSS型HSPの神経系は、
そのアラートの感度が特に高い。
「あ、何かまずいことが起きている」と察知するのが、とにかく早い。
だからグルグル思考も止まらない。
「失敗したかな」「なんでできないんだろう」「みんなできるのに」
これは思考力の問題ではなく、神経系が危険を感じて、何とかしようとしている状態です。
ぐるぐる回るのは、
脅威を回避しようとする、神経系の仕事。
責める必要なんて、ひとつもない。
☆「見守ればよかった」は、今だからこそ言える言葉
12月下旬生まれ。一人っ子。大人しめで、一人遊びが好き。
後から振り返れば「そのままでよかった」って、わかる。
でも、あの瞬間のわたしには、そんな余白なかったですよね。
余白がなかったのも、当然です。
神経系がフル稼働で「何かがまずい」と叫んでいる状態で、
「大丈夫、見守ろう」なんて思えるはずがない。
安心できていない神経系は、冷静な判断より先に、防衛を選ぶ
それが、息子への「無言のプレッシャー」になっていた。
これは、意地悪な母親の話じゃない。
ただ、追い詰められた神経系が、精一杯動いていただけの話。
☆自己責めは「愛情の裏返し」だという見方
ひとつだけ、リフレームを置いていきます。
「できない=失敗した母親」と変換できるのは、
それだけ、子どもの成長を真剣に願っていたからです。
どうでもいい人の評価なんて、冷や汗なんかかかない。
グルグル思考になんて、ならない。
あの日の自己責めは、愛情の重さと同じだけあった。
ただ、受け取る器の方が当時のわたしには、まだ、なかった。
神経系の話でいうなら、自分が安心できていないと、人を安心させることは難しい
だから今、自分の神経系を整えることを、
大切にしていきたいと思っています。
あのころのわたしを責めるためじゃなく、
今のわたしと、これからの子どもたちのために。
つづく
