人は死んだらどうなるのか 死後の世界は?仏教(佛教)の基本の教え 根本のおしえ 仏陀釈尊が説く死後の世界、輪廻転生と因縁因果の法則
(この動画の説明文)
人は死んだらどうなるのか。死後の世界は?
仏教の基本的な思想、釈尊の輪廻転生思想、仏陀釈尊の輪廻転生
因縁因果の法則について。
仏教の基本の教え、根本の教えは 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)
諸々(もろもろ)の悪しきことをせず、 諸々(もろもろ)の善いことを実行しなさい。
そして、自ずからその心(精神)を浄めていくこと。これが諸仏の教えである。
この中の“諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)”というのは
つまり“ 悪い事はするな 善い事をせよ”という教えである。
このことについてヴィパッシ仏は修行僧の集いにおいて次のようにそれぞれの解脱を説かれた。 「耐え忍び、苦行、穏忍は最高のものであり、ニルヴァーナは最高のものであると、諸々の覚者(かくしゃ)は説いた。 他人を害(そこな)う人は出家者ではない。 他人を悩ます人は修行者ではない。 一切の悪をなさず、善を具現し、自らの心を清らかならしめる。 これが諸々の覚者の教えである。
争わず、害せず、それぞれの解説について制している事、 食事に量を知り、坐臥に人々から離れ、高潔なることに心を専らにすること。 これが諸々の覚者の教えである。」 ここでいう覚者とは真理に目覚めた者をいう。悟りを開いた方、仏陀の事を別名、等正覚者ともいいます。ニルヴァーナとは仏陀の境涯をいう。
仏教は輪廻転生(りんねてんしょう)、業報思想(ごっぽうしそう)を説きます。
輪廻転生とは生き物が死んだ後、つまり肉体が滅んだ後においても、その生き物は別の生命形態に生まれ変わり何度も何度も無限に近い時間、無限に近い回数、人間を含む生き物達が何度も何度も生まれ替わり死に替わりを繰り返す事をいう。
また、輪廻転生をするその生き物達(生き物の事を仏教用語で衆生(しゅじょう)といいます。)は天界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界、その六つの世界を何度も何度も生まれ替わり死に替わりを繰り返す。これを六道輪廻と呼びます。
天界とは快楽、喜びに満ちた境涯をいう、人間界とは人間の境涯、
修羅界とは争いに明け暮れる境涯、畜生界とは家畜や動物の世界、
餓鬼界とは常に餓えや乾きに苦しむ境涯、地獄界とは拷問の世界、
大きな悩み苦しみ、激しい痛みに苦しむ境涯をいう。
仏教の経典、阿含経(あごんぎょう), パーリ仏典(増支部経典)において説かれるところによると生き物は天界、人間界に生まれ変わることはごく稀であり、極めて少ないと説きます。地獄界、餓鬼界、畜生界に生まれ変わる回数の方が圧倒的に多いと説きます。
また地獄界、餓鬼界、畜生界のような仏道修行が出来ない境涯や、快楽、悦楽に酔いしれて真理の探究を省みない天上界よりも人間界に生まれる事の方が特別に貴重な果報であると説きます。釈尊も最終的には人間界にお生まれになり人間界において修行を完成しブッダに成られました。
あらゆる生き物のなかの最高の段階、世界を救済する仏陀としての段階に到達する可能性があるのは人間のみなのであるから、人間こそある意味ではあらゆる神々よりも尊いというのが仏教の思想のなかで重要なものの一つである。仏陀に成るためには、神々でさえも天上界から下って人間として生まれ変わらなければならない。人間の身としてでなければ、最高の福祉、最高の完成に至ることが出来ない。
この意味において仏教では人間として生まれる事が何よりも尊く、貴重な財宝であるとされる。そして人間にとっては神々に生まれる事が良き道(善趣)と呼ばれるように神々にとっては人間に生まれるのが良い(道)と呼ばれるのは興味深いことである。
また仏教では輪廻転生の本質は苦であると説きます。そして仏教の最終目標はその輪廻転生からの脱出、二度と輪廻転生しない事、その境地をニルヴァーナまたは涅槃(ねはん)に入るともいいます。
阿含経に「梵行(ぼんぎょう)已(すで)に立ち、所作(しょさ)已(すで)に為し、自(みずか)ら後生(ごう)を受けざるを知る。」という経文がありますが輪廻転生を超越した境涯に至ったことを表す経文です。そのニルヴァーナの境地に至る為に仏教の修行があります。その修行を完成した存在を仏陀(ブッダ)とお呼び致します。
修行を完成し仏陀に成られた釈尊は仏陀としての最高の悟りを開く直前における非常に深い瞑想中において無量無数の生き物達がそれぞれの業、それぞれのカルマに応じて無限に近い膨大な時間、無量無数とも例えられる程の回数、生き替わり死に替わりを繰り返している情景をその超人的透視力で実際に透視したという釈尊の体験が仏典(阿含経)に説かれている。以下は釈尊自身の瞑想の体験談である。
「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、、種々なる過去の生涯を想い起こした。すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、また幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。「我はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれのカースト(階級)であり、これこれの食を取り、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた。このように形や名称とともに種々なる過去の生涯を想い起こしたのである。」
「このように 私(釈尊)は四神足(仏教の修行法、瞑想法)が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。実にこれらの生存者は身に悪行を行い、言葉に悪行を行い、心に悪行を行い、もろもろの聖者をそしり、誤った見解を抱き、誤った見解にもとずく行為を行う。かれらは身体が破壊して死んだ後に悪しき所、堕ちた所、地獄に生まれた。
また他のこれらの生存者は、身に善行を行い、言葉に善行を行い、心に善行を行い、諸々の聖者をそしらず、正しい見解にもとずく行為を行う。かれらは身体が破壊して死んだ後、善い所、天の世界に生まれた。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死に、また生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業に従っているのを明らかに知った。」(パーリ仏典、漢訳仏典参照)
また、インドの古代文献であるウパニシャッド(奥義書)には悟りを得たときには過去の生涯を明らかに思い起こすという思想がある。ジャイナ教においても修行者が悟りを開いたときには世界、神々、人間、悪魔のありさま、彼らがどこから出てきてどこへ行くか、という詳しい姿を見透したという。 しかし、このような超人的な瞑想体験が出来る人間はほとんど皆無といっていいほど稀であるとされるが、釈尊はこの瞑想法だけで仏陀に成られたのではなく釈尊自身の過去世からの無量無数ともいうべき積徳の行為、功徳を積んだ行為より生じた福徳の力、福力により仏陀に成る事が出来たとされる。
仏教では福力成仏という言葉があり、また舎利禮門というお経にも万徳円満、釈迦如来という言葉がある、つまり万(よろず)の徳、全ての徳が完全に備わっている釈迦如来という意味であるがブッダに成るには大きな徳が必要とされる。ただ単なる瞑想法や仏教の教学理論の勉強だけではブッダになることが出来ないとされる。
ある古代仏教の修行法の体系を仔細に検討してみると、悪行為を止め、善行為を行う、つまり倫理の実践、道徳の実践、徳を積む修行法の比重が非常に高い事に気づかされる。 さらにまた、ここで説かれている業に従っているという言葉の意味は業報思想のことを表す。
業報思想とは業つまりカルマともいうが生き物が身体、言葉、心において行った行為に応じて未来、または死後においてその行為に応じた報いをその行為をなした者がその報いを受けるという思想。 自業自得という言葉があるが、つまり良き行いをする者は未来、または現世でなければ死後においてその良き行為に応じた良き報い、幸せな報いを自分自身が受ける。また悪しき行いをした者はその悪しき行いに応じた悪しき報い、不幸な報いを未来、または現世でなければ死後において自分自身が受けるという思想の事をいう。
つまり善因善果悪因悪果の法則、因果の法則ともいう。 良き行為とは、例えば、殺される運命にある生き物の命を助ける、困っている生き物を助ける、苦しんでいる生き物を助ける、病人の世話をする、老いた両親の世話をする、人々に殺生や盗みなどの悪いことをさせないように教える、道徳的に生きる、慈悲の心をもつこと、思いやりの心をもつこと、また他の人にそのように教え導く。正しい仏教を多くの人々に広めることなどをいう。
悪い行為とは生き物を殺す、人の物を盗む、生き物を苦しめる、人を苦しめる。人に迷惑をかける、うそをつき人をだます行為、また他にそのように仕向ける行為、邪淫、間違った思想、世の中にとって有害な考え方を世の中に広めること,怒り、恨み、憎しみの心を持つこと、うぬぼれ、慢心の心を持つことなどをいう。 具体的かつ詳細な善悪の基準、判断は仏典を参照しなければならない。
仏典について説明するとスッタニパータというお経はお釈迦様のお説きになられた言行録として最も古い経典のひとつであると学問的に認められており、また法句経(ダンマパダ)というお経は世界的に有名なお経であり世界各国に翻訳されているお経である。
その法句経(ダンマパダ)というお経において次のような内容のことをお説きになられている。 「まだ悪の報いが熟しない間は、悪人でも幸運にあう事がある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人は災いにあう。」 「また善の報いが熟しない間は、善人でも災いにあう事がある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福にあう。」
「ある人々は人の胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕ち、行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。」 「大空のなかにいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から逃れる場所はない。」