近 江 武 将 伝
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近江出身武将シリーズ③ 横山喜内

今回は、近江出身の隠れた猛将、横山喜内(よこやまきない)についてです。

この横山喜内は、実は前回大谷吉継公の関ヶ原合戦のくだりでも登場している人物です。
その時は、蒲生備中という名前を使わせてもらいました。

本名は蒲生頼郷ですが、歴史小説などでは「蒲生備中」という名前がよく使われます。もちろん、蒲生備中守頼郷の略称です。


名前を途中で変える武将は少なくはありませんが、この武将は、
横山喜内という武名と、蒲生備中という武名の2つを後生に遺した珍しい武将なのです。





どうして2つの名を持つようになったかというと、横山喜内と同郷近江出身の大大名、蒲生氏郷公が関わってきます。

蒲生氏郷公についてはまた別の機会に語りますが、この横山喜内は蒲生家に仕えており、その武功を評され、主君の氏郷より蒲生姓を下賜されたのです。


ちなみにこの氏郷公は非の打ち所のない大名であり豊臣政権下で大老の地位にまで出世した人物でしたが、ひとつだけ困った癖がありました。
自分の「蒲生」姓を家臣に気前よく与えすぎることです。

本来は、主君と同じ名字を持つ「一門衆」は稀少でありステータスでもあった世なだけに、
見るに見かねた同じ大老職の前田利家がたしなめるほどであったそうな・・・。



そんな主人の奇癖によって横山喜内は、蒲生頼郷として生まれ変わったのです。

とはいえ、彼が駈けだしの武将として数多の武功を重ね、天下にその名を轟かせたのは「横山喜内」という名でしたので、以降暫くは横山喜内と呼びたいと思います。



喜内は近江の横山村(現在の日野市内)の土豪として当時南近江を支配していた六角氏に仕えていました。しかし1568年、六角氏は織田信長が近江に侵攻した際に滅ぼされたため、織田家に投降し、同じく六角氏の家臣であった蒲生家に仕えることになりました。

それから織田家中、蒲生軍団のひとりとして喜内は各地で転戦、戦働きの経験を積んでいきます。


やがて1582年、本能寺の変が起こり、信長は憤死。
次いで2年後には蒲生家当主賢秀が死去し、跡を継いだ蒲生氏郷と共に信長の後継者、羽柴秀吉に仕えることになります。


その後の喜内は、羽柴軍団の日本統一事業に従軍し武功を重ね、九州征伐の折りには軍目付の大役を果たすまでになりました。

秀吉が天下統一を果たした後に蒲生家は会津92万石に転封され、喜内はその中で1万2千石を給され、
同じ頃氏郷から蒲生姓と郷の字を下賜され蒲生頼郷と改名しました。


会津移封後の蒲生家は、関東の徳川家、奥州の伊達家の「抑え」として豊臣政権下の重鎮としての働きをしますが、1595年当主の蒲生氏郷が死去。その後家督を継いだ蒲生秀行が若年であったため、家中が乱れ、伊達、徳川の抑えとして重要な地である会津を蒲生家に任せることに不安を感じた豊臣秀吉が会津の地に上杉景勝を入れ、蒲生家を宇都宮12万石に減封したのです。


92万石から12万石という大減封によって、蒲生家ではそれまで召し抱えていた家臣を留め置くことができなくなり、大量の家臣が流出。その中に蒲生頼郷も入っていました。





そこで蒲生頼郷をはじめとする、蒲生浪人を一挙18人も召し抱えたのが、関ヶ原の主役、石田治部少輔三成です。


これが、「蒲生備中」の名を輝かしく後世に遺すことになるのです。





「蒲生備中」が石田家に仕えた年、関白秀吉は死去。


2年後、関ヶ原の戦いが勃発。







蒲生備中は、石田軍団の枢軸として戦乱の真っ只中に突撃していくのです。





1600年、関ヶ原・・・。
蒲生備中は、石田軍団のいち主力部隊として笹尾山麓に布陣。

備中は本陣付近への布陣でしたが、先鋒として最前線に布陣したのがかの有名な島左近と
同じく蒲生浪人の蒲生郷舎です。
(いまでも関ヶ原古戦場にはこのふたりの陣跡が遺されています)




開戦後間もなく、石田三成の首を狙わんとする東軍諸将が笹尾山へ殺到。
その数は、黒田長政隊・竹中重門隊・細川忠興隊・加藤嘉明隊・田中吉政隊・金森長近隊の2万余の大軍勢であったという。


そうそうたる大名家の軍団が束になって押し寄せてくる中、石田の先鋒、島隊と蒲生郷舎隊は数回にわたり
大軍を押し戻し、東軍主力部隊を相手に優勢に戦況を進めていました。

日本の野戦史においても、この時の石田隊先鋒の奮戦ぶりは類を見ないものと言われる程の猛攻でした。



同じように宇喜多隊は福島隊を相手に怒濤の攻めを展開し、大谷隊は藤堂隊をいいようにあしらい
関ヶ原序盤戦の戦況は総じて西軍が優勢でした。





そこで起きたのが、小早川秀秋とそれに呼応した脇坂、小川、赤座、朽木の裏切りです。




大谷隊は死闘の末、壊滅。





続いて小早川と4将が合流した福島、井伊隊によって宇喜多隊が壊滅。




友軍を次々失った三成本陣は、四方をことごとく敵に囲まれ壊滅必死の状態となります。

奮闘していた島左近、蒲生郷舎も乱戦に飲み込まれ行方がわからず、
本陣を守る戦隊らしい戦隊としては大山伯耆隊200名と蒲生備中隊150名のみとなった。



大山、蒲生両名は、三成の退却を見届け、笹尾山麓に群がる数万の敵に向かって最期の突撃を行った。


大山伯耆は突撃後まもなく乱戦の渦に飲み込まれ行方不明となったが、
蒲生備中は往年の武力を頼みに次々と敵を切り伏せながら鋭い錐となり、
群がる敵の分厚い壁を貫いていった。



数千数万の敵からなる暴風域を突き抜けた備中は、台風の目のようにぽっかりと空いた空間に躍り出た。

最前線の敵陣を突き抜けて、敵の背後まで出てしまったのだ。




するとそこへ明らかに無傷と思われるきらびやかな馬具と具足で飾られたひとりの武将が現れた。





織田信長の実弟、東軍に与した織田有楽でした。





備中は、良い敵が現れたと思い、自分がかつて蒲生氏郷に仕えた横山喜内であることを名乗った。

猛将として名高い「横山喜内」の名を有楽が知らないはずもなく、備中はその名を名乗ることで
有楽に対し最期の一騎討ちを申し出たつもりでいた。




しかしそこは戦場に不相応な生粋の文化人大名、織田有楽。

たちまち笑顔になり、一騎討ちを受けてたつどころか、
家康に自分から頼んで、命を助けてやろうというではないか。


備中は、憐れみを受けた屈辱に怒り、有楽に斬りかかった。




有楽は激しく悲鳴をあげながら落馬。

悲鳴を駆けつけた有楽の家臣が駆けつけ、備中を取り囲む。
そして数十本の槍に貫かれ、備中は凄絶な最期を遂げた。




これにより織田有楽は「石田家中重臣、蒲生備中を討ち取った」功を讃えられ、
役後、大和国内に3万石を拝領しました。





ここに、近江に生まれ近江に還った蒲生の猛将、横山喜内の一生は終焉を迎えたのですが、
関ヶ原における石田戦史を語る上では欠かせない闘将として、今も語り継がれています。









近江出身武将シリーズ② 大谷吉継

第二弾です。


今日は、近江が誇る知勇兼備の勇将、大谷吉継公についてです。

実は、前回紹介した藤堂高虎と大谷吉継は浅からぬ因縁があるのです。




1600年、天下分け目の関ヶ原で両者は東軍西軍に分かれ、戦史に残る激闘を演じたのです。

この関ヶ原の戦いは、多くの近江出身の武将が敵味方に別れ、悲しい戦いをしました・・・。









大谷吉継は、石田三成と同じく、秀吉の長浜時代に見いだされた小姓衆のひとりでした。

三成と同じく将来有望な小姓として秀吉の薫陶をうけて育ちました。


しかし同じ秀吉の子飼いとはいえ、武闘派として育てられた加藤清正や福島正則などの
「七本槍」とは異なった道を歩んでいたようです。


吉継がはじめ歩んだ道は、行政官としての道でした。
秀吉が各地を転戦する中で、吉継は、三成と共に兵站や軍監業務に就き、
いわゆる事務方としての英才教育を受けてきたのです。


しかしその三成と吉継。
両者は成長していく過程で、ふたりはゆるやかに異なる道にわかれていったように思います。




三成は、事務方として秀吉に寄り添う中で、政治や経済を学び、文吏官としての腕を磨いていきます。
一方吉継は、各地での歴戦の中から秀吉の軍略や政略を学び、軍監としての力をつけていったのです。

簡単に言えば、三成は政治の分野で抜群に頭が切れる男。
吉継は、戦の分野で抜群に頭が切れる男、となっていったのです。


その影には、吉継の「病気」という悲しい事情がありました。
吉継は、重い皮膚病を患い、その容姿のせいで中央政界から遠ざかる人生を運命づけられたのです。


もし吉継に、中央政界に活躍の場があれば、その後の歴史は大きく変わっていたかもしれません。





しかし、病魔は、吉継の中に指揮官としての才能を大きく開花させることとなりました。

朝鮮の役に軍監として従軍した吉継は、前代未聞の巨大な侵攻作戦をその手腕を持って捌ききり、
秀吉をして「刑部に100万の兵を与えて自由に指揮させたいものだ」と言わしめたと伝わっています。


因みに、この朝鮮の役で三成はというと、中央政界に居座り、
海の向こうで死ぬ気で働く諸将をつかまえて、彼らの軍役態度や不手際を秀吉に讒言したりしたため、
渡海していた武断派の諸将から決定的に嫌われてしまうこととなったのです・・・。








このように、吉継と三成とは、異なる道を歩くようになったのですが、
ふたりは深い友情で結ばれていたといいます。


そのエピソードとして伝わるのは、ある茶会で、茶碗に入った茶をひとくちずつ
飲み回すという回し飲みが始められたときの出来事。

吉継は、重い皮膚病であったことは前に述べましたが、
このとき、吉継が飲んだあとの椀を、病気を理由に誰も飲もうとはしなかったのです。

しかし、三成だけは違いました。
吉継が口をつけた椀をとり、一気に飲み干したというのです。


三成の義将としての一面をうかがい知れるエピソードですが、
この出来事は、ふたりを強く結びつけることになったのです。






やがて、時代は移り変わり、政変が起こります。
秀吉の死去です・・・。



このとき吉継は、いち早く次代を担うのは家康であると読み、家康に接近していったのです。
意外ではありますが、豊臣政権の中枢部にいた三成と違い、
吉継は少し離れた場所から客観的な視点で政局を見守ることができたのです。


家康が天下簒奪の野望のために、
上杉に謀反の疑いがあると難癖をつけて上杉討伐軍を起こしたときも、
吉継も他の大名と同じく参陣しようと領国の敦賀を発ったのです。



しかし、途中で三成の居城佐和山城に訪れたことが彼の命運を分けたのです。




三成は家康により奉行の座を失脚させられ、領国に帰っていたのですが、
彼は粛々と家康との決戦に向けた準備を進めていたのです・・・。

そんな折りに佐和山へ訪れた吉継に、三成は自らの決意を打ち明けるのです。


実は、吉継は一度佐和山を素通りしたのですが、三成と家康の仲を取り持つべく、
三成の嫡男石田重家を自軍に編成し、家康のもとへ連れて行こうと考え、
密かに佐和山へ引き返したそうです。



親友の身を案ずる故に、吉継は泥沼の戦に巻き込まれていくのでした・・・。






三成と家康、ふたりの武将を比較しても、「万に一つも勝ち目はない」と
吉継は何度も三成の無謀を諫めたのです。



しかし豊臣家の永遠の繁栄を願う三成の決死の覚悟を知った吉継は、
負け戦と予測しながらも三成を支え共に戦うことを決意したのです・・・。










やがて決戦の日。



大谷吉継は、石田三成のいる本陣から西南方向、順に島津隊、小西隊、宇喜多隊と並び
藤川台という緩やかな丘陵に布陣。


兵力は、友軍の平塚為広隊、戸田勝成隊を合わせて5700人であったという。


そして以前も紹介した井伊直政による駆け抜けにより天下分け目の大合戦が始まり、
瞬く間に関ヶ原の狭小な盆地は乱戦の渦に巻き込まれた。


関ヶ原の大局については、また別の機会に紹介するとして、
ここでは大谷吉継の死闘について語ることとします。




開戦当初、大谷隊とぶつかり合ったのが、こちらもまた近江出身の藤堂高虎、京極高知両軍5500。



戦況は、ひた押しに押しまくる藤堂・京極隊を相手に、大谷・平塚・戸田隊は一歩もひかずに応戦。
吉継と為広の采配による巧妙な押し引きを繰り返し、藤堂・京極両隊をいいように手玉にとっていました。



余談ですが、この戦いにおいて東軍の中で最も多くの戦死者を出したのは
他ならぬこの藤堂隊であったといわれています。




中央平原では、宇喜多家中の明石全澄隊や石田家中の島左近隊、蒲生郷舎隊、蒲生備中隊が
襲いかかる東軍諸隊を押し返し、圧倒する勢いの猛攻を見せていました。



このように、前半戦は、特に石田・宇喜多・大谷諸隊の活躍もありやや西軍の押し気味で
戦局は推移していきましたが、遂に事件は起こるのです・・・。





小早川秀秋の裏切りです。





西軍に列し、藤川台の南に位置する松尾山に布陣しながらも家康に内通しており、
まさにどっちつかずで前半戦を見守っていた小早川勢が、家康の催促の発砲を受け、遂に裏切ったのです。



無傷の兵15000が大津波となって松尾山から大谷隊をめがけて襲いかかってきたのです。




このとき吉継は、小早川裏切りの悲痛な報をうけても身じろぎひとつしなかったという。

あらかじめ小早川の裏切りを予測していた吉継は、なるべく無傷で温存しておいた兵600をもって
小早川を迎え撃ったのです。



既に主君と心をひとつにした決死の大谷隊600は、2.5倍の小早川勢を一気に押し返した。


その後、藤堂・京極両隊も小早川勢と一緒になって必死の突撃をみせたが、
これも力戦奮闘し必死に支えたのです。



吉継・為広両隊にとっては、小早川勢15000が裏切ったとしても、
勝てなくとも差し違えるくらいの自信と準備と覚悟は持っていたのでしょう。



主従がひとつの闘志の塊となり、3度に渡り東軍を押し返した。





しかしこの戦場に、吉継からすれば愚劣きわまりない近江武将があと3人いたのです。

脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠の3将です。



かれらは赤座直保と共に小早川のいる松尾山の麓に布陣していた。




小早川が数度押し返される中で、藤堂隊の使番が丸餅を描いた大旗を大きく振り始めたのです。




すると、突然脇坂隊が寝返り、朽木、小川、赤座と4隊が順に寝返り、合計4200の
新手の敵となったのです。




一説によると、藤堂高虎と脇坂安治とは浅井に仕えた頃からの同僚であり、
開戦前に裏切りの手はずを整えていたとのことです。


情けないのが、文字通り勝ち馬に乗った朽木と小川、赤座の3将です。




さすがにこれは吉継も予測できなかったのでしょう。

平塚為広は裏切り者の小早川秀秋と4将を誅殺せんがため、迫り来る敵勢へ
残り少ない自隊を率いて鬼神の如き形相で突撃していきました。



しばらくして吉継のもとに、為広の手の者が敵の首を抱えて戻ってきました。
その者は、為広が討ち取った首と、辞世の句を言付かって戻ってきたのです。



為広の玉砕を知った吉継は、その使者に歌を返したという。




「契りあれば、六つの巷に待てしばし おくれ先立つことはありとも」




今に生きる私たちにも内容が理解できる句です。


約束したのだから、六道(死後の世界への分かれ道)の辻で少しまっていてくれ。
前後するかもしれないが、必ずそこへ駆けつける。

という意味です。



その句を使者に渡した後、吉継は、手元に残ったわずか100名ほどの兵へ、
大声で言いはなった。

「今から我が隊は、最期の死に戦に取りかかる。」


目の見えない吉継は重ねてこう言った。


目の見えない自分には勇敢で晴れやかなそなたらの後ろ姿が見えない。
せめて一声、名を名乗ってからいってくれ。



兵たちは我先にと名を叫びながら
闘志をむき出しにし、炎のように激しく敵兵へ突撃していったのでした。








こうして吉継の関ヶ原は終焉を迎えました。


従者の湯浅五助とともに、藤川台の草深いあたりまで戻った吉継は、

最期に全身全霊をもって小早川秀秋への憎悪の炎をむき出しにし、
十文字に腹をかっさばいて壮烈な自刃を遂げた。








戦後、家康がどれだけ探させても、吉継の憎悪に燃えた首だけは見つからなかったという。




吉継が果てた後、湯浅五助は、病気で醜い姿となっていた主人の首を
決して東軍に渡すまいと、地中深くに埋めた。


しかしそのとき後ろから一人の将が、戦いを挑んできたのです。




藤堂高虎の甥である藤堂高刑でした。



五助は振り返り、今ここに主人の首を埋めたことを告げた。
が、決して主君の面容は敵に見せたくない。
だから私の首をはねて、それをもってこのことは多弁しないでくれ。
と懇願したのです。





高刑は、五助の首を持って、高虎と一緒に家康の本陣へ参じた。



その時家康は、五助ほどの従者が吉継の首のありかを知らないはずが無い、と
高刑を追及したが、高刑は、決して言おうとはせず、自分を斬り捨ててくれと
申し出たという話が残っています・・・。







大谷吉継と湯浅五助は、藤川台の森深く・・・
藤堂高虎が吉継の勇猛と五助の忠心を讃えて建立した墓で静かに眠っています。






今も関ヶ原には、
吉継と五助の墓を訪れる人が絶えないといいます。

  近 江 武 将 伝


画像は、関ヶ原町 観光ホームページより引用

近江出身武将シリーズ① 藤堂高虎

今回からは近江出身の武将についてシリーズ連載していきたいと思います。


第一回目は、近江出身の武将の中でも特に波瀾万丈を生きた武将、藤堂高虎公についてです。


藤堂高虎といえば、主君を何度も変えたことで有名です。

それが原因で、一部ではあまり人気のない武将でもあります。



しかし主君替えをしたその半数は、「仕方のないこと」でもありました・・・。




高虎は、近江犬上郡藤堂村の土豪の次男として誕生し、
最初は、当時近江で最も強い勢力を誇っていた英雄、浅井長政に使えます。

やがて浅井長政が「姉川の戦い」に破れ浅井家が滅ぶと、
浅井の旧臣で織田家傘下に組み込まれた武将、阿閉貞征に仕えます。

しかしこの阿閉貞征は、たいそう器量のない武将で、信長からも重宝されず、
大志を抱く高虎は自らの槍を振るう機会の少なさを嘆くようになり、
より大きなチャンスを求めて同じ浅井家の旧臣、磯野員昌のもとへ走ります。

近江高島郡を領する磯野員昌は世に聞こえた猛将で、高虎もよく仕えたのですが、
ある時信長の勘気をこうむって、高野山へ追放、磯野員昌の旧領は、
そっくり信長の甥、津田信澄に与えられ、高虎はそのまま信澄に仕えることになります。


しかしこの信澄も、織田一門にありがちな、「気位だけが高い愚将」でした。


自分の腕力を高く買ってくれない、有効に使ってくれない信澄を見限り、
高虎はここで5度目になる主君替えを決意します。


この5度目の主君替えが高虎の運命を大きく変えました。
秀吉の弟、羽柴秀長との出会いです。

秀長は秀吉の右腕と呼ばれ、主に行政面で比類無き力を発揮し秀吉を完璧に補佐し続けた仁将です。

高虎は、信長から秀吉にまたぐ天下統一事業の第一線に従軍し、数々の武功をあげた他、
秀長から、政治と土木の知識・技術を学んでいきました。



しかし、その秀長は急死。


跡継ぎ養子である秀保に仕えます。

・・・が、この秀保、非情に残酷な暴君であったそうで、
因果なのか、「変死」によって若くしてこの世を去りました。




その後、高虎は秀吉に仕え豊臣幕下の大名としての道を歩み始めます。

秀吉の下では水軍を与えられ、朝鮮の役でも水軍を率いて数々の功をあげます。



しかし高虎には、同格の大名に2人、犬猿の仲と呼ばれる大名がいました。


ひとりは、加藤嘉明。
朝鮮退陣中に、同じ水軍同士で功を競うあまりに何度も衝突を繰り返し、
ふたりは江戸時代初期まで相容れない仲となります。

しかしそれは同じ武人としての好敵手的な関係でもあったようです。



もうひとりは、同郷でありながら完全に異質の世界に生きる男でした。

石田三成です。


多くの武断派大名がそうであったように、高虎も三成を激しく憎悪しました。




政権末期、秀吉が次第に老いていく中で、その独裁政治が三成の手にすりかわって
行われていることに高虎は激しく嫌悪を覚え、豊臣の世を見限るようになりました。


そこで現れるのが徳川家康です。

家康は豊臣政権下での押しも押されぬ大大名であり、
古くさい武人の血を色濃く残した、精強を誇る三河武士団の頭領です。

当然、高虎にとっては憧れの存在でもありました。



ここで高虎は最後の主君替えにむけて疾走しはじめました。

この鞍替え劇は、関ヶ原の大乱によって終結し、その後藤堂高虎は外様では珍しく、
枢要の地に大領を与えられ、大阪の役では譜代筆頭の井伊家と並んで先鋒をつとめるまでになったのです。



・・・と、ざっくりと高虎の主君替え劇を語ってみましたが、
これでわかるように、のちの世に「走狗」と蔑まれるような鞍替えは、
まあしいて言えば徳川に走ったことくらいです。

ただ、これは江戸開府後、ありとあらゆる外様大名が没落していった中で、
藤堂家だけがしっかりと繁栄していったことへの「やっかみ」でもあったようです。





藤堂高虎は近江出身の武将としては最も出世をした武将です。

己の能力だけを強く信じ、武力だけでなく、政治力、行政力、土木力を身につけ、
大きく飛躍した尊敬すべき武将です。


そんな高虎の一代記を楽しく読める一冊をご紹介します。


来年からの大河ドラマ、「天地人」の原作者でもある火坂雅志さんの著書、
「虎の城」上・下です。


これは本当に面白い本でしたので、よろしければ読んでみてください!






歴 史 雑 記

近江彦根の英雄 井伊直政

まず第一回目は、僕が生まれた滋賀県彦根市にとても関わりの深い武将の話です。

彦根市は、徳川譜代の井伊氏の居城、彦根城の城下町。



井伊氏を語る上で欠かせないのは、大河ドラマ「篤姫」にも登場した、江戸幕府大老井伊直弼公、
そして、井伊氏中興の祖である、井伊直政公です。


今日は、徳川四天王として、数多くの戦場で先鋒を任され、「井伊の赤鬼」と恐れられた猛将、井伊直政公について語りたいと思います。




井伊氏は、徳川譜代家臣団に多いいわゆる「三河武士」の家柄ではなく、遠州(静岡県)井伊谷のあたりを根城にした土豪でした。

直政の祖父でもある井伊直盛は、当時静岡県のあたりで強大な勢力を誇っていた今川氏に仕え、
かの有名な桶狭間の戦いで戦死をしています。その後、父直親は謀反の疑いをかけられ誅殺され、
直政は総じて不遇の少年時代を過ごしました。

その後14歳の時、徳川家康に見いだされ、家康の寵童として側近くに使えるようになりました。
幼少の頃の直政は世に聞こえた美少年だったそうです・・・。


しかし成長するにつれ、猛将の血と戦の才能が表出し、戦場ではすさまじい槍働きで
数多くの武功をあげ、当時の徳川軍団の期待のホープとして頭角を現しました。

やがて、直政が22歳の時長篠の戦いが勃発し、無敵を誇る武田軍団が敗北、瓦解した。
武田軍団の敗残兵を引き取った家康は、武田軍団精鋭中の精鋭、山県昌景の赤備え部隊を、
当時まだまだ新進の部隊であった井伊隊に編入させるという大胆な人事を行い、
ここに「井伊の赤備え」が誕生しました。


このとき、直政にとって先輩格にあたる榊原康政は、大層嫉妬し、怒り、徳川家筆頭家老の酒井忠次に
人事の不満をぶちまけたという逸話が残されています。



それからの井伊隊は世に聞こえる徳川軍の先鋒部隊として数々の戦場を駆けめぐり、その武勇を天下に
轟かせました。
「赤鬼」の称号を得た井伊直政は、まさに鬼そのもので、常に自軍の先頭を自ら駈け、生傷が絶えることはなかったとのことです。
また、部下にも非常に厳しく、「赤備え」の名を汚すような失敗をした部下や不相応な行いをする部下を躊躇せず手打ちにするというという非情な一面も持ち合わせたため、「人斬り兵部」として家中でも恐れられていたようです。
※兵部:井伊直政の官位「兵部大輔」の略称


やがて天下分け目の大争乱、関ヶ原の戦いが勃発。
このときも直政は豊臣恩顧の大名で編成された東軍の軍目付として、本多忠勝と共に徳川大名を代表して
参戦。
合戦の火蓋をきったのは、他ならぬ直政でした。

しかしこれは、「駆け抜け」と呼ばれる軍規違反でした。
本来であれば福島正則が先鋒を任じられていたため、彼をさしおいて勝手に戦闘を始めることは許されず、福島正則は、この軍規違反にひどく激怒したと言われています。


しかし不思議なことに、家康はこれを「さすが兵部」と膝を打ったそうです。
豊臣恩顧の大名が名を連ねる東軍の中で、徳川譜代が「おいしいところ」をしっかりと掠めとったことに、家康はおおいに満足したそうです。

しかし、直政の、徳川譜代としての責任感に満ちた働きは、関ヶ原の最終局面に、ある不幸を招きました。

関ヶ原最終局面、西軍諸将が壊滅、壊走し、東軍の勝利が確かなものになった頃、
それまでじっと動かなかった、「鬼島津」の異名で知られる島津義弘率いる島津軍が戦場のど真ん中を
横切るように突如疾走、退却し始めたのです。

精兵で知られる薩摩隼人が黒い塊となって戦場を疾駆してきた時に、福島正則をはじめとする東軍諸将は
あっけなく切り崩され、島津隊をみすみす戦場の外に逃がしてしまいそうになります。


完全勝利間近に起こった東軍の大失態を挽回すべく、力を振り絞って島津隊に喰らいついたのが、
松平忠吉、本多忠勝、そして井伊直政でした。

その折、島津軍がとった戦法は、「捨てがまり」と呼ばれる決死の玉砕戦法。
その中でも直政は見事、島津家重臣島津豊久を討ち取りますが、
玉砕部隊が放った鉄砲玉に撃たれ戦線を離脱。


ここに、直政の戦いの歴史は終息しました。

戦いの鬼であった直政は、長年の過労がたたり、その鉄砲傷がもとで破傷風を発症。
1602年2月1日に、この世を去りました。





僕のふるさと、彦根駅の駅前公園では、今でも井伊直政公の雄姿を拝むことができます。




井伊直政公の命がけの働きによって、彦根35万石が井伊氏に預けられ、
その後長きにわたって、井伊氏は代々近江彦根の地を守り続けました。

余談かもしれませんが、僕が子どもの頃、井伊家16代当主の井伊直愛(なおよし)さんが、
9期に渡って彦根市長を務めておられ、「殿様市長」と呼ばれて皆に親しまれていました。



機会があれば、殿様市長が建てた「井伊直政公像」に会いに行ってみてください。

歴 史 雑 記

近江武将伝

戦国時代(中期~後期)を中心に、近江出身の武将や近江と関わりの深い武将の人物像や逸話、
家臣団についてなど、また、僕が訪れた古戦場や城郭などの歴史探訪ネタを書いていきたいと思います。


暇な時に読んでいただけますと幸いです。

このブログをきっかけに、歴史仲間もたくさんつくりたいので、よろしくお願いします。