近江出身武将シリーズ③ 横山喜内
今回は、近江出身の隠れた猛将、横山喜内(よこやまきない)についてです。
この横山喜内は、実は前回大谷吉継公の関ヶ原合戦のくだりでも登場している人物です。
その時は、蒲生備中という名前を使わせてもらいました。
本名は蒲生頼郷ですが、歴史小説などでは「蒲生備中」という名前がよく使われます。もちろん、蒲生備中守頼郷の略称です。
名前を途中で変える武将は少なくはありませんが、この武将は、
横山喜内という武名と、蒲生備中という武名の2つを後生に遺した珍しい武将なのです。
どうして2つの名を持つようになったかというと、横山喜内と同郷近江出身の大大名、蒲生氏郷公が関わってきます。
蒲生氏郷公についてはまた別の機会に語りますが、この横山喜内は蒲生家に仕えており、その武功を評され、主君の氏郷より蒲生姓を下賜されたのです。
ちなみにこの氏郷公は非の打ち所のない大名であり豊臣政権下で大老の地位にまで出世した人物でしたが、ひとつだけ困った癖がありました。
自分の「蒲生」姓を家臣に気前よく与えすぎることです。
本来は、主君と同じ名字を持つ「一門衆」は稀少でありステータスでもあった世なだけに、
見るに見かねた同じ大老職の前田利家がたしなめるほどであったそうな・・・。
そんな主人の奇癖によって横山喜内は、蒲生頼郷として生まれ変わったのです。
とはいえ、彼が駈けだしの武将として数多の武功を重ね、天下にその名を轟かせたのは「横山喜内」という名でしたので、以降暫くは横山喜内と呼びたいと思います。
喜内は近江の横山村(現在の日野市内)の土豪として当時南近江を支配していた六角氏に仕えていました。しかし1568年、六角氏は織田信長が近江に侵攻した際に滅ぼされたため、織田家に投降し、同じく六角氏の家臣であった蒲生家に仕えることになりました。
それから織田家中、蒲生軍団のひとりとして喜内は各地で転戦、戦働きの経験を積んでいきます。
やがて1582年、本能寺の変が起こり、信長は憤死。
次いで2年後には蒲生家当主賢秀が死去し、跡を継いだ蒲生氏郷と共に信長の後継者、羽柴秀吉に仕えることになります。
その後の喜内は、羽柴軍団の日本統一事業に従軍し武功を重ね、九州征伐の折りには軍目付の大役を果たすまでになりました。
秀吉が天下統一を果たした後に蒲生家は会津92万石に転封され、喜内はその中で1万2千石を給され、
同じ頃氏郷から蒲生姓と郷の字を下賜され蒲生頼郷と改名しました。
会津移封後の蒲生家は、関東の徳川家、奥州の伊達家の「抑え」として豊臣政権下の重鎮としての働きをしますが、1595年当主の蒲生氏郷が死去。その後家督を継いだ蒲生秀行が若年であったため、家中が乱れ、伊達、徳川の抑えとして重要な地である会津を蒲生家に任せることに不安を感じた豊臣秀吉が会津の地に上杉景勝を入れ、蒲生家を宇都宮12万石に減封したのです。
92万石から12万石という大減封によって、蒲生家ではそれまで召し抱えていた家臣を留め置くことができなくなり、大量の家臣が流出。その中に蒲生頼郷も入っていました。
そこで蒲生頼郷をはじめとする、蒲生浪人を一挙18人も召し抱えたのが、関ヶ原の主役、石田治部少輔三成です。
これが、「蒲生備中」の名を輝かしく後世に遺すことになるのです。
「蒲生備中」が石田家に仕えた年、関白秀吉は死去。
2年後、関ヶ原の戦いが勃発。
蒲生備中は、石田軍団の枢軸として戦乱の真っ只中に突撃していくのです。
1600年、関ヶ原・・・。
蒲生備中は、石田軍団のいち主力部隊として笹尾山麓に布陣。
備中は本陣付近への布陣でしたが、先鋒として最前線に布陣したのがかの有名な島左近と
同じく蒲生浪人の蒲生郷舎です。
(いまでも関ヶ原古戦場にはこのふたりの陣跡が遺されています)
開戦後間もなく、石田三成の首を狙わんとする東軍諸将が笹尾山へ殺到。
その数は、黒田長政隊・竹中重門隊・細川忠興隊・加藤嘉明隊・田中吉政隊・金森長近隊の2万余の大軍勢であったという。
そうそうたる大名家の軍団が束になって押し寄せてくる中、石田の先鋒、島隊と蒲生郷舎隊は数回にわたり
大軍を押し戻し、東軍主力部隊を相手に優勢に戦況を進めていました。
日本の野戦史においても、この時の石田隊先鋒の奮戦ぶりは類を見ないものと言われる程の猛攻でした。
同じように宇喜多隊は福島隊を相手に怒濤の攻めを展開し、大谷隊は藤堂隊をいいようにあしらい
関ヶ原序盤戦の戦況は総じて西軍が優勢でした。
そこで起きたのが、小早川秀秋とそれに呼応した脇坂、小川、赤座、朽木の裏切りです。
大谷隊は死闘の末、壊滅。
続いて小早川と4将が合流した福島、井伊隊によって宇喜多隊が壊滅。
友軍を次々失った三成本陣は、四方をことごとく敵に囲まれ壊滅必死の状態となります。
奮闘していた島左近、蒲生郷舎も乱戦に飲み込まれ行方がわからず、
本陣を守る戦隊らしい戦隊としては大山伯耆隊200名と蒲生備中隊150名のみとなった。
大山、蒲生両名は、三成の退却を見届け、笹尾山麓に群がる数万の敵に向かって最期の突撃を行った。
大山伯耆は突撃後まもなく乱戦の渦に飲み込まれ行方不明となったが、
蒲生備中は往年の武力を頼みに次々と敵を切り伏せながら鋭い錐となり、
群がる敵の分厚い壁を貫いていった。
数千数万の敵からなる暴風域を突き抜けた備中は、台風の目のようにぽっかりと空いた空間に躍り出た。
最前線の敵陣を突き抜けて、敵の背後まで出てしまったのだ。
するとそこへ明らかに無傷と思われるきらびやかな馬具と具足で飾られたひとりの武将が現れた。
織田信長の実弟、東軍に与した織田有楽でした。
備中は、良い敵が現れたと思い、自分がかつて蒲生氏郷に仕えた横山喜内であることを名乗った。
猛将として名高い「横山喜内」の名を有楽が知らないはずもなく、備中はその名を名乗ることで
有楽に対し最期の一騎討ちを申し出たつもりでいた。
しかしそこは戦場に不相応な生粋の文化人大名、織田有楽。
たちまち笑顔になり、一騎討ちを受けてたつどころか、
家康に自分から頼んで、命を助けてやろうというではないか。
備中は、憐れみを受けた屈辱に怒り、有楽に斬りかかった。
有楽は激しく悲鳴をあげながら落馬。
悲鳴を駆けつけた有楽の家臣が駆けつけ、備中を取り囲む。
そして数十本の槍に貫かれ、備中は凄絶な最期を遂げた。
これにより織田有楽は「石田家中重臣、蒲生備中を討ち取った」功を讃えられ、
役後、大和国内に3万石を拝領しました。
ここに、近江に生まれ近江に還った蒲生の猛将、横山喜内の一生は終焉を迎えたのですが、
関ヶ原における石田戦史を語る上では欠かせない闘将として、今も語り継がれています。
この横山喜内は、実は前回大谷吉継公の関ヶ原合戦のくだりでも登場している人物です。
その時は、蒲生備中という名前を使わせてもらいました。
本名は蒲生頼郷ですが、歴史小説などでは「蒲生備中」という名前がよく使われます。もちろん、蒲生備中守頼郷の略称です。
名前を途中で変える武将は少なくはありませんが、この武将は、
横山喜内という武名と、蒲生備中という武名の2つを後生に遺した珍しい武将なのです。
どうして2つの名を持つようになったかというと、横山喜内と同郷近江出身の大大名、蒲生氏郷公が関わってきます。
蒲生氏郷公についてはまた別の機会に語りますが、この横山喜内は蒲生家に仕えており、その武功を評され、主君の氏郷より蒲生姓を下賜されたのです。
ちなみにこの氏郷公は非の打ち所のない大名であり豊臣政権下で大老の地位にまで出世した人物でしたが、ひとつだけ困った癖がありました。
自分の「蒲生」姓を家臣に気前よく与えすぎることです。
本来は、主君と同じ名字を持つ「一門衆」は稀少でありステータスでもあった世なだけに、
見るに見かねた同じ大老職の前田利家がたしなめるほどであったそうな・・・。
そんな主人の奇癖によって横山喜内は、蒲生頼郷として生まれ変わったのです。
とはいえ、彼が駈けだしの武将として数多の武功を重ね、天下にその名を轟かせたのは「横山喜内」という名でしたので、以降暫くは横山喜内と呼びたいと思います。
喜内は近江の横山村(現在の日野市内)の土豪として当時南近江を支配していた六角氏に仕えていました。しかし1568年、六角氏は織田信長が近江に侵攻した際に滅ぼされたため、織田家に投降し、同じく六角氏の家臣であった蒲生家に仕えることになりました。
それから織田家中、蒲生軍団のひとりとして喜内は各地で転戦、戦働きの経験を積んでいきます。
やがて1582年、本能寺の変が起こり、信長は憤死。
次いで2年後には蒲生家当主賢秀が死去し、跡を継いだ蒲生氏郷と共に信長の後継者、羽柴秀吉に仕えることになります。
その後の喜内は、羽柴軍団の日本統一事業に従軍し武功を重ね、九州征伐の折りには軍目付の大役を果たすまでになりました。
秀吉が天下統一を果たした後に蒲生家は会津92万石に転封され、喜内はその中で1万2千石を給され、
同じ頃氏郷から蒲生姓と郷の字を下賜され蒲生頼郷と改名しました。
会津移封後の蒲生家は、関東の徳川家、奥州の伊達家の「抑え」として豊臣政権下の重鎮としての働きをしますが、1595年当主の蒲生氏郷が死去。その後家督を継いだ蒲生秀行が若年であったため、家中が乱れ、伊達、徳川の抑えとして重要な地である会津を蒲生家に任せることに不安を感じた豊臣秀吉が会津の地に上杉景勝を入れ、蒲生家を宇都宮12万石に減封したのです。
92万石から12万石という大減封によって、蒲生家ではそれまで召し抱えていた家臣を留め置くことができなくなり、大量の家臣が流出。その中に蒲生頼郷も入っていました。
そこで蒲生頼郷をはじめとする、蒲生浪人を一挙18人も召し抱えたのが、関ヶ原の主役、石田治部少輔三成です。
これが、「蒲生備中」の名を輝かしく後世に遺すことになるのです。
「蒲生備中」が石田家に仕えた年、関白秀吉は死去。
2年後、関ヶ原の戦いが勃発。
蒲生備中は、石田軍団の枢軸として戦乱の真っ只中に突撃していくのです。
1600年、関ヶ原・・・。
蒲生備中は、石田軍団のいち主力部隊として笹尾山麓に布陣。
備中は本陣付近への布陣でしたが、先鋒として最前線に布陣したのがかの有名な島左近と
同じく蒲生浪人の蒲生郷舎です。
(いまでも関ヶ原古戦場にはこのふたりの陣跡が遺されています)
開戦後間もなく、石田三成の首を狙わんとする東軍諸将が笹尾山へ殺到。
その数は、黒田長政隊・竹中重門隊・細川忠興隊・加藤嘉明隊・田中吉政隊・金森長近隊の2万余の大軍勢であったという。
そうそうたる大名家の軍団が束になって押し寄せてくる中、石田の先鋒、島隊と蒲生郷舎隊は数回にわたり
大軍を押し戻し、東軍主力部隊を相手に優勢に戦況を進めていました。
日本の野戦史においても、この時の石田隊先鋒の奮戦ぶりは類を見ないものと言われる程の猛攻でした。
同じように宇喜多隊は福島隊を相手に怒濤の攻めを展開し、大谷隊は藤堂隊をいいようにあしらい
関ヶ原序盤戦の戦況は総じて西軍が優勢でした。
そこで起きたのが、小早川秀秋とそれに呼応した脇坂、小川、赤座、朽木の裏切りです。
大谷隊は死闘の末、壊滅。
続いて小早川と4将が合流した福島、井伊隊によって宇喜多隊が壊滅。
友軍を次々失った三成本陣は、四方をことごとく敵に囲まれ壊滅必死の状態となります。
奮闘していた島左近、蒲生郷舎も乱戦に飲み込まれ行方がわからず、
本陣を守る戦隊らしい戦隊としては大山伯耆隊200名と蒲生備中隊150名のみとなった。
大山、蒲生両名は、三成の退却を見届け、笹尾山麓に群がる数万の敵に向かって最期の突撃を行った。
大山伯耆は突撃後まもなく乱戦の渦に飲み込まれ行方不明となったが、
蒲生備中は往年の武力を頼みに次々と敵を切り伏せながら鋭い錐となり、
群がる敵の分厚い壁を貫いていった。
数千数万の敵からなる暴風域を突き抜けた備中は、台風の目のようにぽっかりと空いた空間に躍り出た。
最前線の敵陣を突き抜けて、敵の背後まで出てしまったのだ。
するとそこへ明らかに無傷と思われるきらびやかな馬具と具足で飾られたひとりの武将が現れた。
織田信長の実弟、東軍に与した織田有楽でした。
備中は、良い敵が現れたと思い、自分がかつて蒲生氏郷に仕えた横山喜内であることを名乗った。
猛将として名高い「横山喜内」の名を有楽が知らないはずもなく、備中はその名を名乗ることで
有楽に対し最期の一騎討ちを申し出たつもりでいた。
しかしそこは戦場に不相応な生粋の文化人大名、織田有楽。
たちまち笑顔になり、一騎討ちを受けてたつどころか、
家康に自分から頼んで、命を助けてやろうというではないか。
備中は、憐れみを受けた屈辱に怒り、有楽に斬りかかった。
有楽は激しく悲鳴をあげながら落馬。
悲鳴を駆けつけた有楽の家臣が駆けつけ、備中を取り囲む。
そして数十本の槍に貫かれ、備中は凄絶な最期を遂げた。
これにより織田有楽は「石田家中重臣、蒲生備中を討ち取った」功を讃えられ、
役後、大和国内に3万石を拝領しました。
ここに、近江に生まれ近江に還った蒲生の猛将、横山喜内の一生は終焉を迎えたのですが、
関ヶ原における石田戦史を語る上では欠かせない闘将として、今も語り継がれています。