大阪・関西万博が開催されるにあたって
1970年に大阪の千里丘で国際万国博が開催され、この当時の日本は高度成長期の最高潮に達した時期でした。日本の高度成長期は、1960年に池田勇人が首相になり、内閣の経済政策として国民所得倍増計画が閣議決定され、1961年から10年間で国民の所得を倍以上にする計画でした。その後、1964年に東京オリンピックが開催され、東京・大阪間にその当時の国鉄が新幹線を走らせた。池田勇人死去の後、佐藤栄作が首相になり、この国民所得倍増計画の最後の年に国際万国博が開催された。1970年頃の出来事としては、70年安保闘争があり、学生運動が行なわれた頃で、国民もすべて中産階級になった頃でした。現在、デフレから脱着するために、賃金を上げ、消費を増やそうとしています。そのための物価高。その時期に大阪・関西万博が開催される。
1970年の国際万国博に日本国民は、新幹線などの鉄道機関を使って、全国から大阪にやって来ました。国民の生活水準が上昇したからです。この国際万国博参りが、個人旅行の出発点となるのです。その当時の国鉄は、この国際万国博での国民の集団移動を体験して、その後、全国に鉄道を利用させて、国民を集団移動させるキャンペーンを広告代理店である電通に企画させたのが、「ディスカバー・ジャパン」でした。このディスカバー・ジャパンのキャッチフレーズは、「美しい日本と私」で川端康成がノーベル文学賞を授賞式で言った言葉「美しい日本の私」をもじったと言われています。国鉄は、「日本を発見し、自分自身を再発見する」というコンセプトに従って個人旅行を推進するため、ミニ周遊券やワイド周遊券などを発行して、国民の旅行熱を高めました。
はたして、今回の大阪・関西万博が昔の国際万国博のような効果をもたらすだろうか。
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