昔者、荘周(そうしゅう)夢に胡蝶(こちょう)となる。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。

自らたのしみてこころざしにかなえるかな。周(しゅう)たるを知らざるなり。 にわかにして覚むれば、則ち蘧々然(きょきょぜん)として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶となれるか、胡蝶の夢に周となれるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分(ぶん)あらん。これを之(これ)物化(ぶっか)という。

 

【現代語訳】

以前、荘周(そうしゅう)は夢の中で蝶(ちょう)になった。ひらひらと飛んでいて、蝶そのものであった。自身が楽しくて、思いのままだった。そして自分が(人間の)周であることに気づかなかった。急に目が覚めて、我にかえって、そこには周がいた。(私には)分からない、(はたして)人間である周が夢の中だけで蝶になったのか、(それとも)蝶が夢の中で人間になったのか。

(常識的には)周と蝶には必ず区別があるはずである。(しかし、実際は常識どおりではない。)このこと(=夢のように、区別など無いのだ、ということ)を「物化」(ぶっか)(=万物は変化する)という。

 

「人間である周が夢の中で蝶になったのか、それとも蝶が夢の中で人間になったのか」というところ。

ここを読むと常に本当の自分の姿は何なのかと思ってしまう。

 

頭で思い描いている姿が本当の自分なのか、それともそうでないのか、またはその逆か…

 

自分とはいったい何なのだろう。

 

本当の自分は…?

病気になる前の姿なのか?

病気になる前の姿は夢又は想像であり、それとはまったく異なる姿が本当の自分なのか?

 

頭の中で考え、想像し、思い出した姿は本当の自分なのか?

今存在している自分はいったい何者なのか?

 

自分って難しい…

 

きっと自分より、他の人のことの方が俺のことを、いや俺という存在を理解しているのかもしれない。

 

 

 

 

うつ病になって長い年月が経つということは覚えていますが、いったいいつからこの病気になったのか覚えていません。

なったときの環境や原因は今でも脳裏に焼き付いています。

 

6月~7月に2か月会社を休んだので、各種手当金申請をしたため、その中の資料の一つにこれまでの治療期間が分かる箇所が記載されていました。

 

何と、初めて通院治療を受けたのは”平成23年1月26日”もっと前からかとも思っていましたは、すでに6年うつ病に悩まされ、来年一月末には7周年記念です(記念していものかどうか…w)

なお、パニック障害が併発したのは平成28年6月だって。いつの間にか1年も過ぎてしまっていますな。

 

前の状況に比べれば、かなりましにはなってきてるけど、症状が改善するまでには、早くとも5~6か月はかかるようで。

上手くいけば来年の1月か2月にはリフレッシュされた俺がRebornしているかもね。

フルタイムで仕事に復帰して、そろそろ1か月が経とうとしている。

日中の暑さは相変わらずだが、朝晩は涼しい風が吹いている。

1週間はとても長いのに、1か月はあっという間に感じてしまう。

 

部署が変わって1か月。前の部署と同じフロアで隣り合わせなので、俺にとって諸悪の根源であるあの男の声、存在だけは手に取るようにわかる。

 

しかし、そんなことよりも一番感じているのは「疎外感」。

隣同士で数メートルしか離れていないのに、かつて一緒に仕事をしていた人たちとの会話はなくなる。そして、休職前は長年お昼に一緒に外食をしに行っていた仲間も俺のことを誘わなくなった。

 

俺がいなくとも、何事もなかったかのように会話や仕事がなされていく。

俺は新しい部署で黙々と仕事を進める。昔は仲間に頼りにされていたが、今では相談しに来る人はもういない。

復職して変わったことと言えば、お昼休みは一人でコンビニ弁当を食べ、会社の屋上で煙草を吸うようになったこと。やる気が沸かない仕事を淡々と処理すること。暇な時間が増えたことだ。

 

俺だけがどこか何もないところに取り残され、昔の仲間ははるか遠くにいるように思える。

 

この上のない疎外感に自分の存在がはかないものだと思ってしまう。それと同時に誰かに会いたい。誰かと心から楽しく会話をしたいとう気持ちが強まる。

 

『たまらなく誰かに会いたいのに、誰に会えばいいか分からない。誰が私と会いたいと思ってくれているのか分からない。私には会いたい時に理由なく会える人がー友達と呼べるような人が、もしかしたら誰もいない。社会人なんて皆案外こんな感じなのかもしれない、そう思おうとするけれど、それでもやっぱり絶望的な気持ちになる。』(出典 新海誠作「言の葉の庭」より)

 

この文章の意味が心に染みてよくわかる。

 

 

 

 

お盆休み明けから通常勤務が始まり、今週が終わりました。

会社に復帰し実質2週間が経過しましたが、うつやパニック障害が症状が出る日はないと思います。実感は湧きませんが、おそらく順調に回復していると思います。今、投薬量を減らしている最中で、2週間ごとの診察で確実に薬が減ってきています。
 
順調に病気が回復しているのになぜなんでしょうか?
 
心に大きな穴が開いている感じ、心のパズルの重要なピースが書けている感じが常にします。
 
それと同時に切なく、寂しい気持ちで満ちています。
 
家族がいて、家族によりどころを求めれば寂しくなることはないはずですが、私にはそれができません。お盆休み中、家族のもとに帰り、数日間は心が満たされましたが今は乾いています。
 
今日何となく見たブログには、「愛することより信じることの方が難しい」とういうニュアンスの内容が書かれていました。確かにその通りだと思います。それと同時に、ここ数年、あの日から、誰かを純粋に心から信じることが出来ていないことに気づきました。
そういう意味で「信じることができる人」は、今子どもたちしかいません。子どもたちは愛しく、かけがえのない存在であり、ありのままを信じることができます。
 
それ以外の人は妻、両親を含め、100%信じる切ることはことはできていないと思います。
 
ここ数年の私は、妻に対して愛することもしんじることもできていません。何度も努力をしましたが、妻という感覚を取り戻すことはできず、どこかぎくしゃくした、歯車が合わない、妻のはずなのにどこか他人のように思えてしまいます。それだけでなく、妻以外の誰かに自分の心の穴を埋めてくれる相手を探している気がします。
 
これが大きな穴であり、欠けているピースなのでしょうか…
どうしたら心が満たされるのでしょうか…
 
それが少しでも分かればさらに一歩進みだすことができる気がします。

約2か月の休職期間を経て、昨日(8/1)から復職しました。

復職してしばらくは時間短縮勤務(6時間)でコンディションを整え、お盆明け位から通常勤務にする予定です。

 

復職しましたが、休職前と同じ部署同じ仕事に戻るのではなく、新しい部署へ配属されました。今までの知識がほとんど使えないので、これから勉強していかないとやばいです(;´・ω・)

私を休職に追い詰めたやつは、依然として同じフロアにいます。席はかなり離れているので被害は受けないですが、時折声が聞こえるだけで殺意を覚えます( ´艸`)

 

個人的に、私は被害者でやつは加害者だと思っています。被害者の私が会社を休み、生活費に困りつらい思いをしていたのに、加害者側には何も処罰みたいなものがないという会社の仕組みに怒りを覚えます。

 

約2か月間の休職でいろいろ見方が変わりました。

今まで悩んでいたことが、別に気にしなくてもいいような気になりました。また、自分が悪いからこうなってしまったと思い込んでいましたが、自分のせいではなく、この状態に追い込んだ人や体制があることにも気づきました。

そうなると会社にたいする不信感も芽生えるので転職活動もしていましたが、これはいい結果が出ませんでした。

 

まずは新たな仕事をすることになったので、新鮮な気持ちで過ごしていこうと思います。