昔者、荘周(そうしゅう)夢に胡蝶(こちょう)となる。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。
自らたのしみてこころざしにかなえるかな。周(しゅう)たるを知らざるなり。 にわかにして覚むれば、則ち蘧々然(きょきょぜん)として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶となれるか、胡蝶の夢に周となれるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分(ぶん)あらん。これを之(これ)物化(ぶっか)という。
【現代語訳】
以前、荘周(そうしゅう)は夢の中で蝶(ちょう)になった。ひらひらと飛んでいて、蝶そのものであった。自身が楽しくて、思いのままだった。そして自分が(人間の)周であることに気づかなかった。急に目が覚めて、我にかえって、そこには周がいた。(私には)分からない、(はたして)人間である周が夢の中だけで蝶になったのか、(それとも)蝶が夢の中で人間になったのか。
(常識的には)周と蝶には必ず区別があるはずである。(しかし、実際は常識どおりではない。)このこと(=夢のように、区別など無いのだ、ということ)を「物化」(ぶっか)(=万物は変化する)という。
「人間である周が夢の中で蝶になったのか、それとも蝶が夢の中で人間になったのか」というところ。
ここを読むと常に本当の自分の姿は何なのかと思ってしまう。
頭で思い描いている姿が本当の自分なのか、それともそうでないのか、またはその逆か…
自分とはいったい何なのだろう。
本当の自分は…?
病気になる前の姿なのか?
病気になる前の姿は夢又は想像であり、それとはまったく異なる姿が本当の自分なのか?
頭の中で考え、想像し、思い出した姿は本当の自分なのか?
今存在している自分はいったい何者なのか?
自分って難しい…
きっと自分より、他の人のことの方が俺のことを、いや俺という存在を理解しているのかもしれない。