ニジンスキー/滞空時間 | 続・エビで龍を釣る

続・エビで龍を釣る

旧ブログの続編です。あることないこと言いっぱなしですが、まじりっけなしに真剣です。
とっちらかった日々のあれこれをなけなしの言葉にして綴りたい。法螺や水増しや誇張も含めて等身大。
ここでも目指せ常温ビックバン!

$続・エビで龍を釣る

ニジンスキーの跳躍を見てみたかった。

それが心残りと言うと、こちらが先に死んでしまうみたいだが、もちろんこのロシアの天才バレエダンサーの方が先に世を去った。

何かにとり憑かれたような壮絶な演技力、そして空中にとどまったように見えたという跳躍。

映像の残されていない彼のダンスは一体どんなものだったのか想像に拠るしかない。でも静止した写真から伝わってくるものはある。

天才のオーラというより、常識をまざまざと打ち破ってしまった人間の孤独の肖像がそこにはある。

彼の年表を見ればわかる通り、天才は不幸だという見本のようなものだ。ほんのわずかなピークの後、ニジンスキーは狂気に見舞われてゆく。

しかし、その現代にも多大な影響を与えたその功績も、人生の葛藤もここでは置いておく。

知りたいのは滞空時間だ。人間が重力に逆らって空中に自力で滞在した最長時間はどれくらいなのだろう。

スカイダイビングは重力に従属して落ちていくので、どれだけ空中にいようとも、ここで言う滞空時間で言えばゼロとみなす。長い時間を落ちていくのは違う。

上昇、あるいは停止。つまり重力に組み伏せられていない状態で人間が空中に滞在していられるのはどれだけの時間なのだろう?

ほんの数秒であっても、それは奇跡だ。

$続・エビで龍を釣る


ニジンスキーその人が自身を「神の道化」と呼んでいたように、人並み外れた滞空時間は、神性の顕れとも映る。

神への愛のため、思わず宙に浮いてしまったという修道士もいれば、蓮華座で空に座するヨガ行者の話はいまだ絶えない。シャーンティデーヴァも空中で経を読んだのではなかったか。

落ちないやつはもはや人間じゃない。人間の人間らしさとは、たぶん、落ちることなんだろう。

天空の城ラピュタは大好きなのに、結末のメッセージは腑に落ちなかった。

「人間は地から足を離しては生きていけないの」

だと?

子供心に白けてしまった。

母なる大地とともに情にまみれて分相応に生きること。

それが人間の人間らしくある姿というものらしい。

前述の宗教者たちや、ロケット工学の偉大なるパイオニア、そしてなによりバレエダンサーなら、そんな定義に口をそろえて言うでしょう。

クソ食らえだと!

定義を受け入れるか否かは、ひとりひとりの観念、ひいては存在にありかたに関わってくるだろう。

これを読んでいるあなたがどちらの人間なのかはわからないし、どちらであっても素晴らしいが、ぼく個人のことを言えば、ニジンスキーの跳躍を胸を躍らせてやまない、そんなひとりだ。



1919年1月ニジンスキーは最後のバレエ公演を終えた。以後、彼はバレエダンサーとして舞台に立つことはなかったという。

もしかしたら、その最後の公演以来、彼はあの驚異的な跳躍から降りてきていないのかもしれない。長い長い滞空時間はいまもまだ尽きていないのかもしれない。