六道輪廻 | 続・エビで龍を釣る

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六道輪廻ってやつは、仏教の世界観にある、ひとつの法則です。

東洋で言われる天国や地獄というのも、輪廻のうちにある6つの領域の天道と地獄道のことを指していることが多い。

悪いことをすると地獄行きだよ、なんて、昔の子供は脅されて育ったもんですが、チビりますね。

天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道

この6つの世界を魂は経巡り続け、ぐるぐると輪廻を続けるというのが、仏教の考え方で、そこから脱するのが解脱ということになるのでしょう。

でも、一説には、お釈迦さまその人は輪廻を否定したとも言います。どういうことでしょう。



さて、ここからは、ほんの数日前の経験談です。

その日は、いつもより深い瞑想に入ることができたのですが、意識の奥に何かを見つけました。

それは、感情のようでもあり、声のようでもありました。どちらにしろずっと持続して流れ続けているものです。無限にループするテープの音ように、それはひたすらに何かに向かって、自分を正当化し続ける声でした。

また、不当な扱いを受けたとして、必死に抗議を続ける感情の渦でした。

それはようするに

「おれは悪くない。おれは正しい。おれは間違ってはいない。誤っているのはあなたがたであって非はこちらにない」

そう訴え続けているのです。怒りであり、愚痴であり、切なる訴求でもあります。

なんだろう? と瞑想中の意識の片隅でこれを見つめていたのですが、その時はわかりませんでした。

瞑想を終えて、考えてみるに、あれは修羅道だったのではないでしょうか。六道というのは、死後生まれ変わる6つの世界ではなく、人間の無意識を支配する6種類の領域のことなのかもしれません。

修羅道というのは、いつも闘争を続ける世界だとされます。

これは自己を否定するものから自己を守るため戦う領域なのです。

簡単に言うなら、エゴを保存するための防御反応の世界であり、現実には怒りや暴力という形をとって現れるプログラムなのでしょう。

僕はいままで、自分が怒っていないとき、自分の存在のどこにも怒りはないと思っていました。

あるひとつの感情に支配されていないとき、それは消えているのだと。

でも、たぶん違うのです。自分が怒りをあらわにしていないときであっても、怒りは続いているのです。意識下で。

たとえ笑い転げていても、美しいものに感動していても、怒りは存在します。

車に例えてみればわかりやすいかもしれません。たとえ、車が動いていなくても、アクセルを踏んで走り出していなくても、エンジンは動いている場合があります。アイドリング状態です。

怒りも同じように、たとえ、外界に発していなくても、それはエンジンの停止を意味しません。アクセル一発でいつでも発現する状態にあります。

自分は温和で優しい人間だと考えている人であっても、(そうであればあるほど?)内側でそれは機能し続けています。

たぶん、仏陀は深い瞑想の中で、人間の無意識を走り続けるプログラムを発見したのでしょう。

それだから、それを滅しろと言わなければなからなかった。エンジンの火を止めて、自分の二本の足で歩きだせと促さなければならなかった。

彼が輪廻を否定したとすれば、六道が実在する世界ではなく、意識の深くで機能する6つの領域だからなのかもしれません。それはある意味では存在するし、同時に存在しない。

畜生道というのは、なんでしょう? これは生存と繁殖の本能と捉えることができます。

これも実は同じ瞑想中に垣間見た気がします。これは必要な本能です。人間が燃える火の中に手を突っ込まないのは自己保存の本能が働くからです。

これはよほど特殊な状況でない限り機能し続けています。

ただし、これも絶対のものでもありません。時折、この本能を超えるタイプの人間が現れます。修羅道が精神的な自己に関わるとするなら、畜生道は生体としての自分を保全するための機能でしょう。


他の四つの領域のことはまだよくわかりません。


六道について調べてみると、修羅道はのちに付け加えられたとされています。仏教の初期の段階では修羅を抜いた五趣だけが言われていたようです。

たぶん、その当時は、現在より、自我の確立をやかましく教育されなかったから、修羅道の一面は無意識をそれほど支配していなかったのかもしれません。

自己を主張し、自らの権利を守るという、近代的な自我と精神は仏陀の時代にはまだ薄かったとも考えられます。

身分制度は過酷でしたが、あまりにも当たり前のものすぎて、疑う対象にはならなかったのかもしれません。近代の平等意識が、男女や身分や民族の差別に「NO!」と言わせることができたから。

よって自己を屹立させ、他者と見比べて正否と優劣を絶え間なく査定しつづける修羅道のカテゴリーは現代にこそ強力に表面化されます。


こいつが暴走すれば、文字通り修羅の道、自己正当化の戦いを続けることになるでしょう。それは他人を裁き続ける道であり、終息することがありません。

僕もよく人を批判します。また同じように批判されます。どうか気をつけてそれを控えたいと思っています。

あれもこれもどれもぜーんぶ嫌い。何もかもが気に食わない。そんなふうに生きていくのはうんざりです。

ある精神科医が言ってましたが「ひとつを憎み続けるなら、やがて全世界を憎むことになる」のでしょう。

さんざん仏教のことを言ってきたけど、最後はジーザスから借ります。


『人を裁くことなかれ。しからば汝らも裁かれざらん』