私の娘はカトリックの幼稚園に通っていました。
その頃、某カルト団の起こしたテロによって多くの方々が犠牲となり、
その事件後に「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」が世に知られるようになりました。
当時、娘の幼稚園の園長先生(神父様)がお話ししてくださったことが、今でも心に残っているので、ご紹介いたします。
みなさんがもし何かの宗教を信仰しているのであれば、それは「生きるため」の信仰であります。
私たちのような聖職者でない限りは、決して「信仰のために生きる」ことはしてはなりません。信仰はあくまで「生きるため」に心のよりどころとしてあるものです。
家族が病気で寝ているのに、今日は日曜日だから教会へ行かなくては、と病人を置いて教会で祈るというのは本末転倒です。
それより、家で病人のお世話をすることの方がはるかに大切なことです。
宗教というのは、世界のどこにでも、ずっとずっと昔からこの世にあるものです。
そして、ほとんどの宗教は、人間として当たり前のこと(人を殺してはいけない、盗みはいけない、人を愛せよ、親を敬え、など)を説いているのです。
なぜなら人間は、とても弱い心も同時にもちあわせているからです。
頭ではわかっているけれど、悪魔が耳元で囁いてしまう、そういう時がありますよね。
だから、「殺してはいけない」とか「盗んではいけない」とか「人を恨むな」とか、当たり前のことをわざわざ言うわけです。
そして、ほとんどの人はその教えを心の拠り所として、時には弱い心にムチ打って自分を戒めたり、理性を取り戻したりしながら生きています。
ですから宗教は、生きるために「人間が必要としているもの」、と見ることもできます。
ところが、上述のようなカルト教団で、事件を起こした信者たちは、生きるために宗教をもっているのではなく、「宗教のために」生きてしまっている、いうことなのですね。
「宗教のために」生きる。
「教祖のために」生きる。
だから、正しいことがわからなくなってしまった。
人としての道を見誤ってしまった。
この、「生きるための〇〇か、〇〇のために生きるのか?」には、「宗教」の他にも様々な言葉が当てはまると思います。
もしあなたが今、何かに悩んでいたら、〇〇にその言葉を入れてみてください。
「あれ?」と違和感を感じるようであれば、原点に返ってその言葉を咀嚼してみるとよいかもしれませんね。
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