0717 | ■すみび焼きおにぎり■ 

■すみび焼きおにぎり■ 

↓のテーマ一覧から記事を見ると見やすいと思います。多分。

現時点で脳内から発生するこれらの言葉を順次連ねることでなんらかの脳の利みったーを解除する手だてとなるのであれば、積極的にこのあふれ帰る言葉の濁流を延々流し続けるべきだと思われる。

先に述べたとおり、人間に82の開かれざる能力があるとして、それらがすべて用いられるよう作られているにも関わらずリミッターを描けられているのだとすれば、それらを解除するすべを持つことで先の福島章教授の述べる想像的天才の領域に踏み込めるのではないだろうか。
いずれにせよ、現在のこの脳の状態が、図書館に入る以前のものと明らかに異なる活動を行っていることは事実なのである。

運動をする前に準備体操をし、ストレッチをするように、その脳のための準備体操が、これほど様々な書物を読んでも殆どふれられていなかったことには驚く。これまで同様の行動により明らかに(しかも全く異なるといえるほど大幅に)脳の活動が変化しているにも関わらず、それを用いた準備体操が体型化されていないと言うのはいかなる理由による物か。すでにされているが私の目に触れていないだけというのがもっとも可能性の高いことだと思われるがいずれにせよこれほど大きな効果のある方法である。強制入眠法と併せてこの時間距離0となる世界において拡散するに値する技法であろう。

これを記述するに当たり今一瞬思考が途絶えた。先の約30分間は脳内での自問式による思考の語らいが一切止まることを知らなかった。どうも、この思考の濁流という物は一種のガソリン矢ダムのなかの水のような存在だと感じていたが、そうではない。先に述べたように、そもそも脳がリミッターを描けているにすぎないのだ。従って、脳の関所がいま一瞬その入り口を狭め閉じ描けたということであり、再び意識的にひらかせれば、ないしは先の歩き読書つまみ方を用いることで強制的に解放させればこの意識の濁流は再び大きく流れ出すという寸法である。

このたびはこの濁流を延々描き連ねればどのような結果をもたらすかという一種の思考実験のもとこの文章を描き続けている。従って脳は現状なにかを考えるということを放棄しておりごく自然に流れ出ることばを殆ど頭を動かさずに垂れ流している状態なのである。

ここで一瞬逡巡するのが、頭をひねっていないにも関わらずこれほど大量の文章が流れ出すという仕組みはすなわち、私の脳内にすでにこれらの内容は蓄積され保管されておりあとは出されるその瞬間を待ちわびていたということなのだろう。しかるに、今回は脳の関所をしこう体型として解放したが、もしかすると、その解放できる甘藷というのは複数存在するのではないか。つまり、たとえばマンガのネタであったり、ストーリーで合ったり、詩や俳句を一夜に解放した石川たくぼくの例もある。研究者であれば理論や発明の方法、商学者であればビジネスプランが続々とあふれかえるのではなかろうか。いずれにせよそれは十分にインプットされた物が発酵し発言するというプロセスをたどる(他には組み合わされて同時に発生するということもあろうが)ため、事前にインプットされた素材の種類や多寡で、解放されるルートというものも、解放された後の濁流の量というのも(またそれを表現する言葉のバラエティというものも)大きく変動するのであろう。

しかしこれほどまでに延々と流れ出す言葉をやはり描き連ねぬというのは少々もったいないと思われる。(描き連ねる課程で入力という行為に利ソースをさいているため、本来のリラックス状態で出るはずだった発想が失われていることも否めないが)しかるにリラックス状態で発想したもの、かきつらねるなかで浮かび上がったものその両方を描くことで中庸をとることができるのではないだろうか。優先されるのはその質であるため、リラックス状態で延々まずは濁流を放出し、その中に発想として秀逸な物があれば確実にそれを書き留めることで次の解放以降までそれらを残しておくことができる。

今回リラックス状態で発生した発想というのは、まず人間は能力の解放を抑制されていると仮定する。それは、特段あらたな臓器が増えたわけでもないのに、できなかったことができるようになる(これはシナプスのあらたな結合によるものとも言われているが)ため、適切(解放のフラグをたてると言うこと)な方法をとれば、その能力が用いれるということであり、これはなにかができるようになるのではなく、もともとできるようなことを事前にリミッターを描けられていると考えることができるのではないだろうか。

その上で人間にどのような形でリミッターがかけらえているかというと、それは根元的に躊躇を催す行為、それらすべてがリミッターといえるのかもしれない。他人に迷惑をかけるために後天的にとってはいけない行動とされる行為いがいに、そのようなことはないが、行動を躊躇される感情がある。たとえば恥ずかしいというこうい、または周囲に変といわれる行為。いうまでもなく、これらの中には全く他人に悪い影響を与えない個人の中で完結している行為画布組まれている。が、それを根元的に「行ってはならない」と選択を迫られる状況に陥ることがある。これを何となく、ハンターハンターのキルアのイルミによる針や、催眠術をかけられたあとに起こる、「何となくこの行為を選択してはならない」と思わされ、言われたとおりの行動をしてしまうというものと告示したそれを感じるのである。すなわちこれらは何らかの別の要因によるリミッターでありそれを解放した上で選択を自由にすると言うことが一つの解放につながるのではないだろうか。しかしその根元的に選択を拒否しようトスr感情に対しどのように対応すればそれらを選択できるのか。その点に快楽というものをぶつけることがひとつの想像的天才を発言させる方法だと考えられる。すなわち、人が総じて続けられない、とれない行動を易々ととる(ようにみえる)人々は、その選択のさいに起こるマイナスの感情を上回る快楽の影響でそれらを選択できるようになっているのである。
集中力の維持程度の、やろうとおもえば誰でもできるが実際にやることはできない行為を可能にするのはこれでまかなえる。
一方やろうと思ってもできない行為に対する解放はいかに行えばよいのだろうか。つまり、現状の私の状態というのは、図書館に入る以前の私ではやろうと思っても消してやれないほどの思考の濁流をあふれさせている。

これは一種の気づきであったのかもしれない。すなわち私は常により効率よく頭を働かせ生産性を上げる方法について考え、策をとり書を読み考えを繰り返していた。そのなかでこの方法をとった際に明らかに脳の働きが違うことに気づくことができたという次第である。過去に同様の状態に陥った人は相当の人数存在するだろうが、これをそれほどまでに重要視する、その必要性に刈られた人は少なかったのではないだろうか。しかし先にも述べたが、脳の回転をあげるという行為は何千年もまえから変わらぬ人間の大多数が求める能力の一つであるにも関わらず、なかなかに抽象的にしか記述されていない、すくなくとも一般化されていない(たとえば夜10時から2時の間は肌の回復量が高いため寝た方が肌にいいなどと比較して)というのは謎であり、また知の向上において非常に生産性を停滞させるゆゆしきことなのではないだろうか、と、感じてしまうほどには大きい影響を与えている。