もう、時節はお彼岸になっていた。まだ朝晩は冷えるし、北を見れば、3月下旬でも雪化粧を落とさない、日本一の山が鎮座している。通勤路の脇に咲く桜の花はピンクに色づき、昼間の暖かさは春の到来を感じさせる。あの極寒の夜、絶望に打ちのめされ母を見送ったあの日から、3か月が過ぎ去っていった。
百箇日も目前だというのに、やっぱり母の居ない寂しさが冷たく私を包んでいる。体も、心も冷え切ってしまい、春の日差しも、これを温めることはできそうもなかった。春の澄み切った青空を眺める。ピンクの花びらが数枚、目の前をひらひらと横切って行った。時折吹く風は、まだ肌寒くて、ぶるっと身震いした。
思えば、会社に復帰してから、毎日、毎日、残業の日々だった。平日は2~3時間の睡眠。土日は布団から起き上がれない。歯止めが利かなかった。
「体壊したら何もならないから、早く寝な」と深夜2時過ぎに私の部屋の様子を母は見に来ていた。そんな母は、もう居ない。
こんな調子で会社へ行っていれば、朝はいつか起きれなくなる。いつもなら「○○っ! 今日は会社休むのかい? たまには休みな」と言う母に、「駄目だだよ、今日会議だから欠席できない」と言って、無理して体を起こしていた。もうそんな声も聞けない。
だから、朝は起きれず、会社には午前半休で行くことが多くなった。今年度の残業は、年間850時間を超えそうだ。久々だ。昔は1,000以上やったこともあった(おっと、1000時間以内ということにしておいてくれ)が、あれは若かりし頃だったから何とかなったが、今はもう体が言うことを聞かない。
三連休。会社から宿題を持って帰ってきた。金曜日は起きられず、土曜日の今日(昨日になってしまったが)は、墓参りだ。明日は、PCを起動して仕事しなきゃ…。でも、もう疲れたな…。
思えば、母の体のことよりも、仕事を優先した選択をしてきた。別に役職が付いているわけでもない、平凡な平社員は、こんな時勢の解雇を恐れていた。命より大切なものなんてなかったのに…。今も、父と母の位牌が置かれた仏壇の前で、「本当にすまなかった」と謝っている。これから先も、私の心は救われることがないのだろう。
ぼたもちを買ってこようと、午後になってからスクーターで出かけた。近所のアピタへ寄った。地元のアピタには天神屋というお弁当やお惣菜を昔から作っているお店がテナントとして入っている。ここのぼたもちは美味しいと母が言っていた記憶があった。天神屋に寄ったが、5個入りのぼたもちしかなく、私と弟では食べきれないと判断し、アピタを離れ、天神屋の本店へ向かった。
夕刻ともなると、昼間の暖かさが嘘のように、コートの襟から凍えるような冷たい風を吹き込ませている。本店にもほとんどぼたもちはなく、すごすごと帰ろうとしたところ、レジの前にきな粉とつぶあんの2種類のぼたもちが入ったパックが置かれていた。その傍らにあった、小さく切られた、コーヒーバウムクーヘンが同じようにパックに入っておかれていた。母は、ロールケーキやバウムクーヘンが好きだった。というか、甘いものには目がなかった。私はぼたもちとバウムクーヘンのパックを手に取ると、レジへ向かった。
会計を済ませ外へ出ると、あたりはもうすっかり暗くなっていた。スクーターのエンジンをかけ、家路を急いだ。
仏壇の前にぼたもちとバウムクーヘンを供えた。線香に火をつけて、香炉に刺す。
父と母が、せめてあの世では幸せに過ごせるように、ただ、ただ願う。こんなにがんばった母なのだから、ばぁちゃん、褒めてやってほしい。そう願わずにはいられない。
仏壇に供えたぼたもちを見た。手作りの小さなぼたもちだ。私の母はもちろん自分でぼたもちを作る。生前はね。大きなぼたもちで、とても一口二口では食べられない大きさだった。たまに大ポカをやらかして、煮ていたアズキを焦がしてしまったりしていた。
母は、あんこ好きだったよな。生きているうちに、食べさせあげたかった…。もっとおいしいものを食べさせてあげたかった。
去年の今頃は、放射線治療の副作用で、すでに腸閉塞になっていた。だから、殆ど食べられなくなっていた。
かぁさん、何もしてあげられなかったね…。今日も仏壇の前で、後悔している。
100日が近付くというのに、3か月が経とうと言うのに、春が来たというのに、私はまだ立ち直れていなかった。とにかく、無我夢中で働いた。でも、会社の行き帰り、風呂の中、独りになると必ず母のことを思い出す。
あの日を思い出すと、胸が苦しくなる。
絶望…、本当の絶望をあの時味わった。
何もできない、無力さに打ちひしがれた。
息苦しい…。呼吸が荒くなる。
それでも、それでもなお、私を救えるのは、私しかいない。膝をパンと叩いて、力を振り絞り、また立ち上がって歩き出すしかない。