会津戦争7 『血戦!母成峠』 | 鳳山雑記帳アメブロ版

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 奥羽越列藩同盟にとって奥羽鎮撫総督府の九条総督は錦の御旗でした。彼を軟禁している限り人質としても新政府を脅す材料になるからです。ところが九条総督一行は仙台藩領から久保田(現在の秋田県)藩領に逃げ込みます。これは同盟側の大失態ともいえる出来事でしたが、九条総督一行を迎えた久保田藩は第12代藩主佐竹義堯(よしたか)以下、勤皇派が多かったことから反論を勤皇に統一し列藩同盟から離脱します。

 

 列藩同盟は、仕方なく上野戦争から逃れ東北に来ていた寛永寺門跡輪王寺宮(孝明天皇の実弟)を擁立し盟主に祭り上げました。輪王寺宮ご自身は複雑な心境だったと思いますが、官軍に対抗するには錦の御旗が必要な列藩同盟側も必死でした。久保田藩の勤皇思想は何といっても同藩出身の国学者平田篤胤の薫陶が大きかったと思います。それに佐竹氏は関ヶ原の戦後処理で幕府に恨みこそあれ恩など感じていませんでした。

 

 久保田藩に離脱されたら困る仙台藩は使者を送って説得しますが、久保田藩側はこれを殺害し完全に列藩同盟と断交します。仙台藩は激高し、久保田藩に向けて攻撃を開始しました。久保田藩の北隣、現在の青森県西半分を領地とする津軽藩は最初勤皇派でした。ところが周囲を佐幕派諸藩に囲まれ孤立することを恐れ嫌々列藩同盟に参加します。しかし、九条総督の久保田入り、勤皇派に鞍替えしたのを見て、自身も新政府側に恭順しました。

 

 津軽藩とは戦国以来因縁のある盛岡藩は、津軽藩の裏切りに怒り攻め込みました。1868年9月、藩境の野辺地で津軽藩とその支藩黒石藩の兵が南部藩兵と激しく戦います。戦争は主に久保田藩領で戦われたので津軽藩は軽微な損害で済みました。

 

 東北諸藩で最強の藩は出羽庄内藩酒井家でした。大富豪本間家から莫大な献金を受けていた庄内藩は近代装備で統一します。当時最新の元込め式小銃スナイドル銃も多数装備していました。久保田藩は南から酒井玄蕃率いる庄内軍に攻め込まれ一時滅亡寸前まで追い込まれます。新政府は薩摩、佐賀などの藩兵を次々と送り込み何とか守り切りました。

 

 実は盛岡藩も新政府側、列藩同盟側どちらに付くか迷っていたと言われます。だが、戦国以来恨みの深い津軽藩が新政府側に付いたのを受けて、感情的に列藩同盟に傾いたのです。この選択は間違いでした。東山道先鋒総督府参謀、土佐藩板垣退助、薩摩藩伊地知正治らは仙道筋、浜通り筋の二方向から北上します。7月14日、磐城平城陥落。7月23日には、北越戦線において新発田藩が新政府に恭順しました。7月26日、仙道筋の三春藩が降伏します。三春藩秋田家は過去に書いた通り本拠北出羽を追われ南陸奥の三春に転封させられたので幕府に恩を感じておらず、最初から新政府に心を寄せていました。周囲が旧幕府方だったので仕方なく同盟に加わっていただけです。

 

 加えて、仙台藩は三春藩を小藩と侮り傍若無人な態度で接しました。三春藩としては何とかして同盟を抜け新政府軍に加わるために時期を計っていただけだったとも言えます。このような藩は多かったはず。そんな中、二本松藩丹羽家だけが孤軍奮闘していました。二本松藩は10万700石。藩の兵力は1000人程度。これに子供や老人、農民兵を動員してやっと2000人前後の兵力を揃えます。しかし武装は火縄銃など旧式でゲベール銃があったら良いほうでした。

 

 二本松藩は主力部隊を白河口の戦いに出していたため、本拠二本松城は手薄でした。そこへ東の隣国三春藩が新政府に降伏したため側面から攻撃を受けることになります。新政府軍は二本松と白河の間にある本宮に攻撃を集中し二本松軍の分断を図りました。これが成功し二本松城は孤立します。二本松城を救援すべく会津藩、仙台藩が援軍を派遣しますが待ち構えていた新政府軍に攻撃され敗退しました。二本松軍は新政府軍の包囲網を破り何とか帰城しますが、一部は城外の取り残され二本松少年隊のように全滅した部隊も数多く出ました。7月29日二本松城落城。

 

 二本松落城で新政府側では二つの方針が議論されます。東京の本営では戦争の総指揮をとっていた大村益次郎(村田蔵六から改名)が、まず枝葉(仙台藩や米沢藩など)を刈って根元(会津藩、庄内藩)を枯らすべく、仙台藩や米沢藩への侵攻を指示します。ところが二本松にいた参謀の土佐藩板垣退助、薩摩藩伊地知正治らは逆に根元を刈って枝葉を枯らすべきだと主張しました。冬に入ると雪に慣れない新政府軍が不利になるという考えもありました。結局現場指揮官の方針を優先して会津攻めが決まります。

 

 この時、会津藩は日光口や白河口に主力を集めていました。また北越戦線にも1000人以上の部隊を派遣していたため、二本松城に官軍主力が集結しつつあるとの報告を受けても、それに兵力を割く余裕がありませんでした。会津藩は二本松と会津盆地を最短距離で結ぶ中山峠を官軍が攻撃すると見ていました。ところが裏をかき官軍は母成峠に殺到します。ここを守るのは会津軍と新選組など旧幕府軍残党800人余り。

 

 官軍は陽動で中山峠にも800人を割き、板垣、伊地知が指揮する主力部隊1300人は母成峠に、また土佐藩谷干城率いる別動隊1000人が勝岩の台場へ、河村純義率いる薩摩藩兵300人もこれに続きます。伝習隊を指揮していた大鳥圭介は、新政府軍の主攻が母成峠であることを察知していましたが、兵力が少なく手当できませんでした。

 

 8月21日、両軍はぶつかります。午前9時ころから始まった戦闘は、大鳥圭介率いる近代装備の伝習隊などの奮戦もあり同盟軍側が善戦しますが、多勢に無勢、数に勝る新政府軍に次第に押しまくられ午後4時ころには大勢が決します。最後まで母成峠にとどまっていた伝習隊ですが、会津藩兵は味方を置き去りにして敗走しました。伝習隊は壊滅的打撃を受け、仙台に逃れます。のちに蝦夷地に至り新政府軍と戦い続けました。仙台藩も他藩の兵を置き去りにして逃げることが多く、このように同盟軍は全く結束していなかったと言えます。負けるべくして負けたのです。

 

 ともかく、会津への関門はついに破られました。次回、官軍による会津鶴ヶ城包囲と白虎隊の悲劇を描きます。