奈良時代の税の話 | 鳳山雑記帳アメブロ版

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 マニアックな話で非常に恐縮なんですが、前記事で戦国時代~江戸時代の石高と年貢の話をしました。その最後に律令時代の税はどうなっているのか気になっていると書きましたが、ついでなのでちょっと調べてみました。と言ってもあくまでネット上で調べただけなので薄い内容であることはあらかじめお断りしておきます。

 

 皆さんも学生時代日本史で習ったと思いますが、律令制時代の税制は租庸調が基本でした。そのうち租は大化の改新以降6歳以降の良民男子に二段(たん)、女子にはその3分の2、賤民のうち官戸、公奴婢には良民と同等、それ以外の賤民は良民の3分の1の口分田を与え、収穫の3%~10%ほどを税として徴収するというものです。これを田租とも呼びました。

 

 租として納められた米などの収穫のうち災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源となります。しかし気候に左右されるため安定せず、国衙が農民に種籾として貸し付けた利子を国衙の主要財源とするようになっていきました。

 

 庸は正丁(せいちょう 21歳から60歳までの男性)、次丁(61歳以上の男性)に課せられた労役です。本来は京都に上って様々な労役を課していましたが、時代が下るにつれ米や布などで代用できるようになります。米の場合を庸米、布の場合を庸布と呼びました。現代で言うところの人頭税に当たります。

 

 調は正丁、次丁、中男(17歳から20歳の男性)に課せられた税で絹や麻などの繊維製品を納める正調が基本でした。これも代替手段として地方特産品や貨幣で納めることも認められていました。

 

 学生時代習ったはずなのにすっかり忘れていたので勉強になりました。防人(さきもり)は庸の一種なのか、全く別物なのか不明です。もし別だとすると庶民の負担は馬鹿にならなかったでしょう。

 

 墾田永年私財法で荘園が作られ始めたとき、国衙領に住んでいた農民が逃亡して荘園に逃げ込んだ理由も分かりますね。都の貴族どもは私利私欲、農民にとっても重税を避ける目的もあったのでしょう。少なくとも荘園なら庸はなさそうですからね。とはいえ、荘園に住んでいたら税負担が軽くなるという事はなく次第に農民の不満は高まったと想像します。地方の豪族が武士団化したのは横暴な荘園領主に対抗するという意味もあったのかもしれません。

 

 いつの時代も権力者に好き勝手に重税を課せられ苦しんでいたのは庶民でした。平安時代を平和な時代と勘違いしている人も多いと思いますが、虐げられた庶民層の不満を糾合した地方豪族が武士団化し、都の貴族どもを圧倒して武士の世の中を作ったかと思うと感慨深いものがありますね。