ウィーン       - 世界の都市の物語 - | 鳳山雑記帳アメブロ版

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立花鳳山と申します。ヤフーブログが2019年閉鎖になったのでこちらに引っ越してきました。歴史ネタを中心に好き勝手なことを書いています。宜しくお願いします。

 

 久々の世界史「世界の都市」シリーズですが、今回は「音楽の都」あるいは「森の都」と呼ばれるオーストリアの首都ウィーンです。

 

 ヨーロッパの主要都市は、ローマ帝国に起源をもつものが多いのですが、ここウィーンもそうです。

 

 しかも都市ではなく、もともとはローマ軍団が駐屯したカヌントゥムを防備するために築かれた城塞でした。当時の名をヴィンドボナといいましたが、これはそこにあったケルト人の集落の名前でした。ヴィンドボナの名前自体ケルト語に由来するといわれています。

 

 このあたりは天然の障壁が少なく、ドナウ川とウィーンの森にはさまれ唯一の要害と呼べる場所だったそうです。だいたい紀元1世紀ころヴィンドボナは築かれました。

 

 ローマ帝国の北の辺境に当たり、しばしばゲルマン人の侵入に悩まされます。それでも入植がすすみ最盛期には周辺も含めて35000人の人口があったそうです。212年にはカラカラ帝から自治都市として承認されるほど発展します。

 

 しかし、豊かになったことでかえって蛮族の略奪の対象になったのですからどっちが良かったのかわかりません。433年、ローマ帝国はフン族の侵入に耐えかねヴィンドボナを含むパンノニア州をフン族に割譲します。

 

 ヴィンドボナはそれまでに徹底的に略奪と破壊を受けていましたから、割譲を機に住民はローマに移り住みました。

 

 しかし、一部現地に残った住民はまだ破壊を免れていたヴィンドボナ北東部分に改めて強固な城砦を築き移り住みます。そしてこれが現在のウィーンの基となりました。

 

 

 976年、東フランク王国のオットー2世はこのあたりをオストマルク辺境伯領としてバイエルンから独立させ、バーベンベルク家を辺境伯に任命します。

 

 辺境伯はメルクに居城をかまえウィーンは中心都市ではありませんでしたが、ドナウ川の水運と交通の要衝であることからしだいに発展し経済の中心地になります。

 

 ウィーンの発展を決定づけたのは何と言っても十字軍でした。ドイツ諸侯が中東に出陣する時は必ずウィーンに立ち寄ったそうですから、戦争特需で繁栄したそうです。

 

 1155年、辺境伯ハインリヒ2世は首都をウィーンに移します。ではいつウィーンがオーストリアの首都となったかですが、これは1273年に大空位時代を経てスイスの田舎貴族ハプスブルク家のルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に就任してからです。

 

 ルドルフは反対勢力をおさえてウィーンを確保すると、この地を統治下に置き、ウィーンはハプスブルク家の発展とともに帝都としての体裁を整えます。

 

 ハプスブルク家は音楽家を保護したため、モーツァルトなど高名な作曲家を数多く生み出し、ウィーンは音楽の都とうたわれました。

 

 オスマン帝国による二度の包囲などいくつかの危機はありましたが、以後ウィーンは神聖ローマ帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国の首都として、そして第2次大戦後はオーストリア共和国の首都として現在に至っています。