ちょと間空きましたが、先日のScience 科学的、のワナ1の続き、、

 

 

科学的って、その時点での話であとから覆るかもしれない・・・。それって、ポジティブに言い換えると、振り返った時に得た新たな学びで、過去・歴史から学んでいるって言い換えることもできますよね。


誰が言ったか、心に残るこの言葉

 

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』

 

調べるとドイツのビスマルクの言葉だそうで、日本の首相、竹下登は、この言葉を座右の銘にしていたそうです。

 

 

コメが時々使う比喩なのですが、既存の全ての知が、半紙に落とした一滴の墨だとして、どんどん広がるとしたら
その外周の『既知と未知の境界線』の長さ、はどんどん長くなってしまうのですゲッソリ
 
 
 
 
 
つまり、知識が増えるほど、未知への境界線が長くなる訳で、
 
自分にとって『未知の領域が増えていく』のを実感するはずなんです。
ソクラテスの言った『無知の知』、の良い説明になってたりしないかな?(笑)
 
 
さらに、儒学者と有名な藩主との手紙のやり取りの質疑をまとめた江戸時代の名著「水雲問答」によると
 
知識:雑学的、繋がりがない
見識:知識をもって得た、価値判断の基準
胆識:見識をもって確信したところへの、度胸を伴った実行力
 
 
と、知識にも3つのフェーズがあると。。
 
とすると、知識って
1)増えた分だけ知らない事も増えて謙虚になるし、
2)消化して他の知識・経験と紐付けして、役立つ形にしないといけない
 
使い方・学び方が大事なものだって事だと思うんです(当たり前だよ〜!ってご指摘有難う御座います。。や、ホント。。)
 
 
最初の話に戻ると、AIの仕事って、見識のとこなんです。胆識に繋げる・実行するための見識ですので、バイアス・思い込みの無い評価って非常に大切です。でも、イタチごっこになっている状況って、一つのModalityに固執している証左で、ともすれば原理主義的になりかねない。。だから他の可能性を排除・見落としてしまわ無いように、一つの視点・視座だけからではなく、
 
『AI以外の視点・視座からの解釈』
 
 
も必要じゃ無いかな?って思うんです。。少なくともAI以外のカウンターパートとして何が挙げられるのか?コレを考えておかなければ、未知への境界線、もとい未来への可能性が狭くなってしまうのでは?と、コメは考えるのです。
 
 
AIって、コレ知能なので、価値判断の基準になる訳で、『道具』の範疇を超えるかと。それって、先日のSF作家と研究者の仕事って、スーパー起業家に置き換えられちゃう?、の中で考えたBrain-machine Interfaceの、人間機能の拡張、っていうのに近い様にみえるのですが、
 
 
価値判断基準を、(人の脳で)理解できないAIにアウトソースする、
と、最悪自分で考えなくなる。
 
『科学的』の定義の一つから齎された、
『自分の頭で考えましょう』っていう警鐘に反して、
『他のモン(AI)に考えてもらいましょう』
って形になっちゃってませんかね?あせる
 
 
玉石混合の研究論文
    ⬇︎
AIを使って論文の質の評価
    ⬇︎
その研究の質をAIで評価
 
 
マッチポンプ的構造ですね(汗)
スタート地点で混入した質の悪い論文に振り回される現実には、皆さん嘆息気味だと思いますが、これも一つの現実として受け入れつつ、一体、科学的とは、科学とは、この先どう為されていくのか?科学的活動のベースになる知能・知性って何?
 
 
またまた、長くなったので、3に続きます(コメも予想外ですびっくり(汗))
 
 

読んで下さって有難う御座います。

今日もいいコトありますように

 
コメ